戦国中山王圓鼎を習う(43)「於虖折哉」

《含余方壯、智天若否。侖其悳、眚其行、亡不順道、考宅(度)隹型。於虖、哲哉。》

《今、余方(まさ)に壮にして、天の諾否を知る。其の徳を論じ、其の行を省し、道に順(したが)はざる亡く、考度(こうたく)して惟れ型(のっと)る。於虖(ああ)、哲なる哉。

「於」:7回目です。両脚を中心に配して調和を図ります。拙臨は顔が大きく脚も長くなってしましました。

「虖」(乎):3回目です。渦巻き紋は筆を立てて書くことが大切です。

「折」(哲):「折」の手偏の部分はもとは手ではなく草木の象である「屮」(てつ)が2つ重なった形です。「斤」を加えて草を折断する様となります。草が「木」となり、2つ繰り返すことを意味する記号をその上に載せているものと思われます。ちなみに、李学勤らが「哲」の仮字としているのに対し、赤塚忠は同器の終盤に出てくる、ウ冠と新からなる字と同形であることから、これを「新」としています。しかし、これはもとにした拓本の「辛」部の小さい▽部がつぶれていたために生じた誤りです。事実、ウ冠がつかない「新」字も同器銘にあり、それを参照すれば生じない誤りといえます。氏の中山三器に関する説解は、非常に良くまとめられていて裨益この上ないのですが、良質でない拓影を資料としていることによる誤りが散見されるのはとても残念なことです。

「哉」:2回目の登場です。糸束を並べた形「」(し)と「才」からなっています。横画は中央やや上寄りに配して書きます。

戦国中山王圓鼎を習う(42)「考宅隹型」

「考」:長髪の長老の姿「老」と曲刀の形「丂」(こう)からなります。首から胴身へと右下へ続けるべきところ、縦の部分を分離して書いています。ここでは、老父、先父の意ではなく、「旧(舊)」の意で用いています。

「宅」:[説文]「宅」の古文にこれと似た形があることをもって「宅」としています。「宅」は神や祖先神を祀る廟所にて、神の憑依を受け、神託を得るための儀式をさす字で、声符の「乇」(たく)は[字通]に「草の葉が伸びて、その先端がものに寄りかかる形。草の葉などによる占卜の方法を示すものであろうと考えられる」とあります。赤塚忠は「崖下で人が身を托している形。宅の音によって推せば、度の仮字であり、法度(はっと)の意である。とすれば(前の字)考は古音相通じる旧の意でなければならぬ」と説いています。なお、家廟をあらわすウ冠「宀」(べん)に拠らず、崖下で神事を行う場所を示す「厂」(かん)に従う例は多くみられるものです。拙臨は右脚の湾曲部を膨らませ過ぎました。

「隹」(惟・唯):3回目となります。尾の短い鳥をさす字で、文献では唯・惟・維を用います。重心が右に寄って不安定になるのを垂直で凜とした長脚が支えています。

「型」:「刑」と「土」からなります。「井」部は鋳型で、「型」はその鋳型の外枠を刀状の道具を使ってはずす形。鋳型は器物の形を決めるものであるところから、「のっとる」意となります。「井」の右下へ伸びる画と「刀」の刃部の画は別個に書くものと思われますが、接写画像を確認しても判然とはしません。

戦国中山王圓鼎を習う(41)「亡不順道」

「亡」:2度目となります。屈葬による屍の象。下の狭い空間に1画入れていますが、前回のものには入れていません。ちなみに、説文の親字にも入っていません。なお、この装飾的増画では、方壺にある「亡」の一つに、中央の縦画のやや上寄りに肥点を入れるものもあります。

「不」:4度目です。前回のものには最上部に1画入れていましたが、ここでは入れていません。「亡」と同様の中山国篆書の鷹揚性です。

「順」:3回目です。「巛」(せん)は「川」と同じ。しかし、「災」の上部の場合は(さい)と読み、本来横画が連なるように加わっていて、本流に対して横流が生じた氾濫の状態を示したものなので注意が必要です。「川」の中央の画は「心」の中心よりも少し左に配置します。

「道」:2度目の登場です。頭部横の飾りは「頁」(寡)の放射状の4点と異なり、耳の様な形になっています。また、前回よりも頭部を小さく収めています。

 

戦国中山王圓鼎を習う(40)「悳(德)眚(省)其行」

「悳」(德):字形は「悳」(とく)の構造になっていますが、甲骨文や西周の金文の一部は「心」がつかず、行人偏がついています。[字通]によれば、「字は省の初文と近く、省は目に呪飾を加えて省道巡察を行う。彳は諸地を巡行する意。その威力を心的なものとして心を加え、德という。のち徳性の意となる。」とあります。「直」の縦画を中心に据え、かつ「直」部は半分以下に抑えて書きます。

「眚」(省):「生」と「目」からなるとされていますが、上の部分は草の生え出ずる形である「生」ではなく、目に施した呪飾です。領内を巡察する際に眉飾を施した姿で行う様です。中山国の篆書では「目」をこのようにして書くパターンの他、「相」の場合のもの、そして「睿」でのものの合わせて3つのパターンがあります。「睿」字は旁に「見」がつく形が出てくるのですが、偏旁2つの「目」の形は異なる2つのパターンで書かれています。長脚にできない字例ですが、「生」の縦画を上に長く書くこともあり得たのかなとも思います。

「其」:4例目です。箕の中はカタカナの「ヌ」のように書いても良いと思います。

「行」:交叉する十字路の形で、ものが行き交う意が生まれます。この十字路の片側だけの形、「彳」(てき)だけでもその意を反映させています。また、「彳」と足跡の形「止」を加えたものが「辶」となります。上下がずれないように書くことが大切です。

戦国中山王圓鼎を習う(39)「若否(侖)論其」

「若」(諾):ここでは「諾否」の「諾」として用いています。字通には「巫女が両手をあげて舞い、神託を受けようとしてエクスタシーの状態にあることを示す。艸ははふりかざしている両手の形。口は祝祷を収める器(さい)」とありますが、甲骨文や金文にはこの器(さい)の無い形が多く見られます。この中山国篆書の上部は振り乱した髪と振り上げた両手の部分が原初の姿から変化したもので、腕を改めて書き足しています。なお、右の2画は装飾的増画です。

「否」:「不」と祝詞を入れる器(さい)からなります。「不」は普通、肥点を入れませんが、この場合は入れています。

「侖」(論):木簡をまとめ編んだ形。「まとめる・まるい」などの意を持ちますが、ここでは「論」の仮借字です。

「其」:3度目となります。上部よりも下部の幅をやや押さえて書きます。

戦国中山王圓鼎を習う(38)「方壯智(知)天」

「方」:おどろおどろしい字。屍(しかばね)を横木に架けて晒した状態です。これを他国との境界に置いて呪禁としました。字形からすると、横木に架かっているのは、「化」の旁にあたる屍が逆さになった姿「匕」(か)の逆向きになったものと思われますが、音が(ほう)となることから、「方」の音に近い、人の右向きの形「ヒ」(ひ)(※匙や小刀とする説もあります)なのかもしれません。筆順については、先ず横木を書き、次は金文諸例の通りに縦画から横木を越えたところで右に展開し、最後にその方向を変えたところから左下へ斜めの線を書くのが良い気がしますが、そうでなくとも構わないと思います。

「壯」:声符である「爿」(しょう)と鉞(まさかり)の刃を下にした形で王などの身分を示すための儀器「士」からなります。白川静は「爿」は一般的に、版築の版木の形と、牀(とこ)に従う形との二系があるが、この場合の「爿」は殷代金文にみられる氏族標識に出てくるものに関係がある」と説いています。

「智」(知):3回目となります。「知」として用いています。「干」(かん)の膨らみは、「矢」の右横画の位置を目安に、祝祷の器(さい)もその位置にあって包まれるようにして収めます。

「天」:5回目です。各画の長さと位置の関係や脚の分岐する位置などを確認して書くと良いと思います。

 

戦国中山王圓鼎を習う(37)「頁(寡)人含(今)舍(余)」

「頁」(寡):2回目となります。首から上を強調した人の側身形。顔の両側にあるのは前回の「道」において説明したように、中山国篆書特有の装飾的な増画と思われます。

「人」:5回目です。「人」は円鼎と方壺合わせて19個あります。極端に字幅を狭くして垂直な縦画を強調します。

「含」(今):「含」には古い字例はなく、容庚が編した『金文編』でも「今」の項にまとめていて、その中で「口」が加わるものは中山王器からの1例のみです。ここでは「今」の意で用いています。「今」は栓を兼ねた蓋で、この場合の「口」は死者の口(くち)とされています。死者の口に玉を詰めて死気の漏れ出るのを遮断する含玉の象です。白川漢字学においては、これが「口」形を「祝詞を入れる器である(サイ)」としない極めて数少ない例の一つとなっています。なお、栓がない蓋を器(サイ)に被せた形が「合」となります。蛇足ですが、「今」の一般的な金文を見ると、「曰」(えつ)を逆さまにしたようにも見えるのですが…。神からの啓示が出た器を逆さまにして、直ちに効力を停止させる…。などと妄説を抱くこともあります。蓋の右側を長く垂らす例は中山以前にもあるようで、西周中期の諫簋や西周晩期の召伯簋などにみられます。それを中山国篆書の装飾性をもって美化したものといえます。

「舎」(余):「舎」は「余」の左右の画を除いたもの(入れ墨用の針または把手のある掘鑿刀)と祝詞を収める器の口(さい)からなります。この器を長い針で突き通すことによって、その祈りの機能を失わせることをいうことから「すてる」意をもちます。ここでは用例は少ないようですが自称の代名詞「余」として用いています。当時は音が近かったものと思われます。字形は脚を持たないので、概ね字画を均等に配置した構成になっています。

戦国中山王圓鼎を習う(36)「解(懈)厶(以)詳(誘)道(導)」

「解」:角と刀と牛から構成され、刀で牛角を解く意となります。ここでは同音の「懈」(かい・おこたる)の意で用いられています。旁の「刀」の刃の部分にここが刃であることを示す1画を入れていますが、本来は「刃」ではなく「刀」のままで構いません。しかし、中山国の篆書に2例ある「解」はいずれも「刃」にしたものとなっています。ところが、例えば「則」についてみると、「刀」とするものと「刃」にしたものの2通りを認めることができるのです。ここに中山国篆書の鷹揚性をみることができます。

「厶」(以):2度目となります。耜を表す「厶」(し)の形です。後に「以」「㠯」の形に分かれました。ここでは「以」の意で使われています。中山国の篆書に慣れてくるとこれを1画で書けるようになると思います。

「詳」(誘):言偏の下の部分、中の1画は本来必要ありません。(接写画像にははっきりと写っています) これも中山国篆書の鷹揚性に括られると思います。他には、次回出てくる「舎」なども、同様に本来必要のない1画を入れています。さて、旁の方ですが、「羊」と「牛」が上下に重ねられています。この形は一字として甲骨文にも登場するもので、羊や牛の類の生贄(いけにえ)として扱われているものです。現行の「觪」(しょう・つの)は説文では「觲」(しょう)として篆文が載せられています。これは羊牛類の角を意味する字です。これによって今回のこの字を赤塚忠は「羊」の音を主として考えれば「詳」の字として良いとしています。これを次にくる「道」と合わせ、「誘導」として「誘」の字を通仮(仮借字をあてること)させるようです。拓影では「刃」の縦画がやや傾いていますが、習う際は同円鼎の「剌」(らつ)は方壺の「創」のように垂直にして書いて良いと思います。

「道」(導):白川静「字通」を引用すれば、「首(しゆ)+辵(ちやく)。古文は首と寸とに従い、首を携える形。異族の首を携えて除道を行う意で、導く意。祓除を終えたところを道という」とあります。異族霊を祓うために首を掲げるところから「又・寸」(手)を添える形も使われ、それが「導」の初文となります。ここでは、「導」の意で用い、前字とともに「誘導」として解釈します。字形では「首」の両脇に耳飾りのような飾りがつきます。これは「憂」字と同じです。また、「覆」「會」にも似た飾りを付けています。それに対し、「頁」では左右4点を放射状に並べる飾りにしていることは既に触れてあります。臨書をする際、頭髪の省略形の曲線から、首全形の周囲を巡る様に一気に書くときは(もちろん分けて書いても可)、呼吸を長く筆を立てて書くことが必要になります。

戦国中山王圓鼎を習う(35)「宜(義)夙夜不」

「宜」(義):廟屋を示す「宀」(べん)と俎(そ・まないた)である「且」(そ)からなっているとされていますが、「且」の古い字形は「宀」には従っていないようです。また、まな板とされているものには2段に分けて祭肉(月または夕)が加えられたものがあります。管見ですが、字形を鑑みるに、まな板とするよりも、祭卓に載せられた大きな肉塊か、あるいはそれを収める器であるような気がします。その肉塊を切り分けている形が「俎」です。一方、羊の肉を鋸のようなもので切って供えるのが「義」で、声義が通じています。中山国の篆書の特徴として、字の底部は長い横画を避けて短くするか、省略します。

「夙」:説文の字形は(夕+丮(けき))。「丮」は物を掲げ奉ずる形ですが、「夕」は甲骨文では月の形に作る一方で、金文では肉の形にもみえます。月の形とすれば、早朝に行う祭祀において残月を拝する意ともとれます。「つとに」「はやい」意はそこから了解できます。この字の拓影に不鮮明なものがありますので、接写画像にて習うことをお薦めします。なお、初形にない「女」が加わっている点については、西周中期以降、例えば青銅器「師酉簋」に認めることができます。上部左の部分は両手をあらわす一部が変化したもので、「夕」を挟んだ右の腕にあたる部分と分断したものと思われます。

「夜」:人の正面形に月を表す「夕」を加えた形。月夜に人影が斜めに伸びた様とされています。実際、金文の字形には「大」の部分が斜めに傾いているものがあります。ちなみに、これと似た字に「亦」があります。「亦」は人の正面形の両脇を示す点が2つ添えられているもので、「夜」はその一方を「夕」(月)に入れ替えたものですが、なぜ、「夜」の字形に脇を示す点を一つ残したのか、あるいはその両者の関係については、金文の一部にその一つの点も省いたものもあり判然としません。

「不」:3度目です。既出の2字は上部に横画を1画添えるものと省いたものの2例でした。中山国の3器に残された「不」は全部で26例ありますが、この横画があるものは18例です。一方、春秋期の「王子午鼎」や「蔡侯器」には中央縦画に肥点を入れる例があり、中山国の器銘にも通用体で記された「兆域圖」の「不」には肥点に換えて短い横画が入っていて当時の書体が影響し合ったり、流行が及んでいたことが窺えます。なお、中山国の篆書では中央の交叉してできる逆三角形の部分は小さくすることが基本です。

戦国中山王圓鼎を習う(34)「賃(任)臣宗之」

「賃」(任):「任」(じん)の仮借字。「賃」の「ちん」は慣用音。「任」の甲骨文は人が鍛冶の工具らしきものを背負う形で、あたる、たえる、よくする、になう、もつ、いだく、おう、のせる、にもつ、はこぶもの、つとめ、しごと、任務、責任、まかす、まかされる、任侠、侠気、ほしいまま、あるいは妊と通じて、はらむ等、たくさんの意を持ちます。ここでは「任務」の意と思われます。「貝」の両脚は「壬」の縦画の位置を中心に、開きすぎないように立てて書きます。怱卒な通用体で刻された円壺には人偏と貝の両脚を略した形が使われています。

「臣」:3回目となります。第1画は右遙か上から左下3分の1あたりを目指してやや直線的に書きます。拙臨は丸め過ぎました。

「宗」:2回目です。祭卓の2脚を略した字形は、甲骨文、金文からみられるものです。シンメトリックかつ分間を等しくして書きます。

「之」:5回目です。天上から斬るように降ろし、曲部から筆を釣り上げながら収めていく動きは何度書いても難しいと感じます。