戦国中山王圓鼎を習う(46)「祗寡人聞」

社禝其庶虖。厥業才(在)祗。寡人聞之。事少(小子)女長、事愚女智。此易言、而難行施。非恁與忠、其隹能之。其隹能之。隹(吾)老貯(賙)、是克行之。》

社稷 其れ庶(ちか)き虖(か)。厥(そ)の業は祗(つつ)しむに在り。寡人之(これ)を聞けり。少(小子)に事(つか)ふること長の如く、愚に事ふること智の如しと。此れ言ひ易くして行ひ難きなり。信と忠とに非ずんば、其れ誰か之を能くせむ。其れ誰か之を能くせむ。唯だ□(吾)が老貯のみ、是れ克く之を行ふ。》

 

「祗」():不明な点を抱えた字のひとつ。青銅器銘文の文脈に鑑みて、後に通用していた「祗」を充てたものと思われます。「祗」(し)にはつつしむ・まさにの意をふくみますが、字形を見てのとおり、「祗」の構造とはかけ離れていて、音も「氐」(てい)に従っていません。また、経籍には土地の神をさす「祇」(し・ぎ)と混用している例もあるようです。おそらくその混乱はかなり早くに生じていたものと思われます。さて、「祗」としたこの字は、西周青銅器の《郾侯簋》《召伯簋》《史牆盤》に登場しますが、いずれも籠のような器物を上下逆さまに重ねた形をしていて、容庚の『金文編』には索引に「祗」とともに形状に準じた「」を充てています。しかし、それでも上部は「甹」(へい)の金文のように最上部は屈折した飾りのようなものがあり、青銅器「卣」(ゆう)の初形である「由」ではないように思います。また、春秋期の《蔡侯諸器》の字例では長尺化とともに一部の譌変(かへん・誤ってかわること)を認めることができ、この時すでに混乱が生じていたことが窺われます。一方、中山国三器にみられるこの字形の下部は明らかに「而」となっています。おそらく当時の混乱を背景にして、当時の通音(し)に近い「而」を充て、上部との対称性をはかるために短い横画を加えたものと推測しています。上部の短い縦画をL字型に書いていますが、別の例では垂直にしています。

「頁」(寡):5回目の登場です。頭の部分を大きく書いてしまいました。最終画の縦画はこの字の中心に配置して書きます。

「人」:7回目です。「寡人」は王侯の地位にあるものをさす語。縦画が垂直になるように、かつ刻むようにして強い線になることが求められます。

」(聞):2回目となります。「耳」の下の弧を長くしすぎ、「氏」の左を丸めすぎました。前回のものは「日」の中は横画にしていましたが、この場合は点にしています。心憎い遊び心ともいうべきでしょうか。[字通]によれば、「卜文にみえる字の初形は象形。挺立する人の側身形の上に、大きな耳をしるす形で、望の初文が、挺立する人の側身形の上に、大きな目をしるすのと、同じ構造法である。その望み、聞くものは、神の啓示するところを求める意である。聽(聴)・聖の初形は、卜文の聞の初形に、祝詞の器の形である口(さい)を加えたもので、みな神の声を聞く意である。」とあります。説文古文に「」形の字を載せていますが、なぜ「昏」に従うのか。「爵」の楚簡にも「昏」に似たものがあります。次第に「昏」の字形に似たものになっていく過程を、金文の字形「」の速書きや簡略化による変化として包山、郭店、上海の諸楚簡に認めることができるようです。