写経入門講座がいよいよ明日開催です。

書道愛好者をはじめとして、様々な藝術文化愛好者の間ですすむ高齢化は、近年特に深刻な問題になってきています。その影響はそれぞれの会員諸氏によって組織される関係団体の会員減やそれに伴った財政逼迫という事態にまで及んでいます。これに危機感を募らせた書道関係者の有志が打開のための様々な策を提案。その一つが「写経入門講座」です。志を共感する輪は次第にひろがっていき、栃木県書道連盟の正副会長、事務局長をはじめとする多くの書道関係者がこれに協力していだだけることとなりました。過日、これらの動きを下野新聞が大きく取り上げたことにより、連日のコロナ感染者急増にもかかわらず60名をこえる参加希望が寄せられました。主催する栃木県写経倶楽部では、予定していた会議室を急遽変更し、収容者数が2倍以上となる会場を用意し、少しでも感染を防止し、参加され方々の不安を払拭することといたしました。

明日(7/31)の講座は、受講される方が、心を癒やし、写経に打ち込むひとときの楽しさ面白さといった魅力を体験するためのさまざまな工夫を用意してお待ちしています。なお、いずれこの活動が軌道に乗った暁には、宗派を超えた寺院巡りによる写経の愛好活動にまで広げられたら良いとも考えております。

当日、お配りする揮毫例(大浦星齋筆)です。今後の継続する講座では書者を換えていろいろな書例を提供していきたいと考えています。
奈良天平期の写経として知られる「魚養経」の断簡です。当日の講習でご紹介いたします。(観星楼書道篆刻研究院蔵)

戦国中山王圓鼎を習う(52)「其隹(誰)能之、其隹(誰)能之」

社禝其庶虖。厥業才(在)祗。寡人聞之。事少(小子)女長、事愚女智。此易言、而難行施非恁與忠其隹能之。其隹能之。隹(吾)老貯(賙)、是克行之。》

社稷 其れ庶(ちか)き虖(か)。厥(そ)の業は祗(つつ)しむに在り。寡人之(これ)を聞けり。少(小子)に事(つか)ふること長の如く、愚に事ふること智の如しと。此れ言ひ易くして行ひ難きなり。信と忠とに非ずんば、其れ誰か之を能くせむ。其れ誰か之を能くせむ。唯だ□(吾)が老貯のみ、是れ克く之を行ふ。》

「其」:6回目になります。「其誰能之」が繰り返されるところです。繰り返しの記号である重文号「゠」は右下に小さめに添えて書きます。

「隹」:「隹」字として4回目です。これまでは「唯」の意で使われていましたが、今回は「誰」の通仮字です。羽を表す横画が分間等しく水平に整うように書きます。中山国の篆書では、右下が空いている場合は重文号を上に寄せて書きます。

「能」:[説文]には熊に似た獣の象としていますが、[字通]では「水中の昆虫の形に象る」としています。金文の形は左右それぞれの部分がつながっていますが、これは別個のものとして配置しています。2つの肥点は装飾画です。

「之」:7回目です。左の2画は、中山三器にみられる45例を通観すると、ほぼ真上から降ろすようにして書くことが多い様です。

戦国中山王圓鼎を習う(51)「非恁與忠」

社禝其庶虖。厥業才(在)祗。寡人聞之。事少(小子)女長、事愚女智。此易言、而難行施非恁與忠、其隹能之。其隹能之。隹(吾)老貯(賙)、是克行之。》

社稷 其れ庶(ちか)き虖(か)。厥(そ)の業は祗(つつ)しむに在り。寡人之(これ)を聞けり。少(小子)に事(つか)ふること長の如く、愚に事ふること智の如しと。此れ言ひ易くして行ひ難きなり。信と忠とに非ずんば、其れ誰か之を能くせむ。其れ誰か之を能くせむ。唯だ□(吾)が老貯のみ、是れ克く之を行ふ。》

「非」:否定の意で用いる字ですが、「不」よりも重いものです。[説文]では飛翔する鳥の羽としていますが、古代の中国では、「非余」あるいは「比余」とは櫛のことを指し、字形は左右に歯のある櫛の形です。上部を長く伸ばしシンメトリックにまとめます。

「恁」:諸賢はこの字に「恁」を充てています。しかし厳密にいうと、旁上部は「壬」とは構造が異なります。既に円鼎にある「任」字については触れています。方壺では「賃」の構造を持つ「」を「任」の仮借字としており、その違いを確認できます。また、この字について古文字研究家の于豪亮(1927—1982 うごうりょう)は「信」(まこと)の異体字ではないかとしています。しかしながら、この説は方壺に「信」とする「」がありますので「信」の意を持つのは良いとしても異体字とする点については無理があるようです。

「與」:「与」の部分は象牙のようなものを2つ組み合わせたものとされています。これに4手が添えられた形が「與」です。下の2手の間にある「二」の部分は、「朕」の字形にもみられるものですが、春秋中期の青銅器、鎛(斉侯鎛)の「與」に(さい)に従う字例があります。

「忠」:2回目です。今回のものは、右に伸びる吹き流しがあるため「中」を少し左に寄せたきらいがありますが、他の字例の通り、縦画を「心」の中心に合わせて書く方が良いと思います。

戦国中山王圓鼎を習う(50)「而難行施」

社禝其庶虖。厥業才(在)祗。寡人聞之。事少(小子)女長、事愚女智。此易言、而難行施。非恁與忠、其隹能之。其隹能之。隹(吾)老貯(賙)、是克行之。》

社稷 其れ庶(ちか)き虖(か)。厥(そ)の業は祗(つつ)しむに在り。寡人之(これ)を聞けり。少(小子)に事(つか)ふること長の如く、愚に事ふること智の如しと。此れ言ひ易くして行ひ難きなり。信と忠とに非ずんば、其れ誰か之を能くせむ。其れ誰か之を能くせむ。唯だ□(吾)が老貯のみ、是れ克く之を行ふ。》

「而」:3回目です。中山の3器には13の字例があります。その中には最上部に1画増やすものとそうでないものとの2つのパターンが見られ、この例のように増画するものは4例となります。中央の2脚は付け根で引き締め、伸びやかで直線的に書きます。

「難」:「」(かん)と「隹」(すい)からなります。「」は「難」の字解の中で「金文の字形によると鏑矢(かぶらや)の形と火に従っており、火矢の形かとみられ、火矢を以て隹(鳥)をとる法を示す字かと思われる」としていますが、「堇」(きん)の字解では「字はに従う。は焚巫(ふんぷ・巫女を燓くこと)の象」としていて断定には至っていないようです。この字の拓影を見ると、やや膨満ぎみなので少し幅を抑えながら書くことをおすすめします。

「行」:2度目です。人や物が行き交う交差点の形です。左右対称になるように注意して書きます。

「施」:やはり2度目です。前述したように「旃」の字をあてている研究者もいますが、字形は「施」(せ・し・い)であり、同一の声系である「也」の意で使われています。逆に「施」の意で用いているものが「阤」で、方壺に出てくる字です。なお、[字通」ではこれを「旃」として扱い、「施」の金文体として「阤」字を扱っているのですが、ここにある字形を採用すべきと考えます。さて、前回のものは上下の縦画の位置をほぼ揃えていましたが、7例あるうち、揃えるか近いものが3例、4例はこの例の様に少し右にずらして書いています。できるだけ縦画を中心線上に揃えて書く方が美しい姿になると思います。

戦国中山王圓鼎を習う(49)「智此易言」

社禝其庶虖。厥業才(在)祗。寡人聞之。事少(小子)女長、事愚女智。此易言、而難行施。非恁與忠、其隹能之。其隹能之。隹(吾)老貯(賙)、是克行之。》

社稷 其れ庶(ちか)き虖(か)。厥(そ)の業は祗(つつ)しむに在り。寡人之(これ)を聞けり。少(小子)に事(つか)ふること長の如く、愚に事ふること智の如しと此れ言ひ易くして行ひ難きなり。信と忠とに非ずんば、其れ誰か之を能くせむ。其れ誰か之を能くせむ。唯だ□(吾)が老貯のみ、是れ克く之を行ふ。》

「智」:4回目です。「智」の初形である甲骨文の構成素「矢」、「」(さい)、「干」(かん)はいずれも祭祀に用いる聖器ですが、現在の活字には「干」がありません。しかし、馬王堆帛書や張家山漢簡など、漢時代までは入っていたようです。これが魏になって『三体石経』では省かれていることが認められます。「矢」の尖頭を「干」より少し上に出すようにして書きます。

「此」:「此」はこの一字のみで、声符「止」(し)と「匕」(ひ)からなります。ただ、字形がどのような状況を表しているのか、よくわからない字です。「匕」は普通、右向きの人、さじ(匙)、曲刀の場合が考えられますが、[字通]では「牝牡(ひんぼ・めすおす)の牝(ひん)の初文。此は雌の初文。此に細小なるものの意がある。之と同声で、代名詞の近称として用いる」、さらに「牝牡の字形は匕・土の形で示され、牛羊の旁(つくり)に加える。それぞれ牲器(性器)の部分の象形である」としています。残念ながら、不肖ゆえ、この説明では直ちに氷解に至りません。「止」を「匕」の凹みに納める結構は見事に感じます。

「易」:「易」は2通りの形があって、他の一つはこれに上下逆転したものを横に並べるものです。[字通]によれば、「日+勿(ふつ)。日は珠玉の形。勿はその玉光。玉光を以て魂振りを行う。玉を台上におく形は昜(よう)で、陽と声義が近い。下部は勿の形。玉による魂振りをいう。]とあります。右肩にある小さな部分が「日」のようです。

「言」:これも[字通]を引用すると「辛(しん)+口。辛は入墨に用いる針の形。口は祝詞を収める器の(さい)。盟誓のとき、もし違約するときは入墨の刑を受けるという自己詛盟の意をもって、その盟誓の器の上に辛をそえる。その盟誓の辞を言という。言語は本来呪的な性格をもつものであり、言を神に供えて、その応答のあることを音という。神の「音なひ」を待つ行為が、言であった。白川漢字学の核心の一部ともいえる魅力ある説解です。「言」は、それを含む中山国の字例として、「訛」「訴」「語」「誓」「誘」「請」「許」「詻」の他、通仮字として「作」「信」「恪」「専・傳」「貽」があり、比較的頻出するものの一つです。

 

戦国中山王圓鼎を習う(48)「長事愚女」

社禝其庶虖。厥業才(在)祗。寡人聞之。事少(小子)女長、事愚女智。此易言、而難行施。非恁與忠、其隹能之。其隹能之。隹(吾)老貯(賙)、是克行之。》

社稷 其れ庶(ちか)き虖(か)。厥(そ)の業は祗(つつ)しむに在り。寡人之(これ)を聞けり。少(小子)に事(つか)ふること長の如く、愚に事ふること智の如しと。此れ言ひ易くして行ひ難きなり。信と忠とに非ずんば、其れ誰か之を能くせむ。其れ誰か之を能くせむ。唯だ□(吾)が老貯のみ、是れ克く之を行ふ。》

」(長):2回目です。「長」は年長者、長老を表しています。中山国の篆書では、「立」をもって部首を入れ替えたり追加することがあります。これ以外には「創」、「節」、「廃」、「僮」などの例があります。「立」の下を空けて「長」の脚を長く見せます。

「事」:前回に続いて2回目です。前出のものよりも、吹き流しの垂れを長く表現しています。

「愚」:「禺」(ぐ)を白川静は頭部が大きい虫の形と推測し、蛇形のものが相交わる形とも考えられるとしています。「田」が頭を表す場合は上部を少し尖らせたり角を出すことがあります。この「禺」と「心」を重ねるのはなかなか難しかったことが窺えます。

「女」(如):対句表現のところですから、「事」と同様に再登場です。中央の縦画は、最初の横画のところで方向を変え、一気に地を刺すようにして書きます。

戦国中山王圓鼎を習う(47)「之事小子女」

社禝其庶虖。厥業才(在)祗。寡人聞之。事少(小子)女長、事愚女智。此易言、而難行施。非恁與忠、其隹能之。其隹能之。隹(吾)老貯(賙)、是克行之。》

社稷 其れ庶(ちか)き虖(か)。厥(そ)の業は祗(つつ)しむに在り。寡人之(これ)を聞けり。少(小子)に事(つか)ふること長の如く、愚に事ふること智の如しと。此れ言ひ易くして行ひ難きなり。信と忠とに非ずんば、其れ誰か之を能くせむ。其れ誰か之を能くせむ。唯だ□(吾)が老貯のみ、是れ克く之を行ふ。》

「之」:6度目です。中央の画が屈折するところに右斜画が接することを目安にすると良いと思います。

「事」:[字通]には「史+吹き流し。史は木の枝に祝詞の器(さい)をつけて捧げる形。廟中の神に告げ祈る意で、史とは古くは内祭をいう語であった。外に使して祭るときには、大きな木の枝にして「偃游(えんゆう)」(吹き流し)をつけて使し、その祭事は大事という。それを王事といい、王事を奉行することは政治的従属、すなわち「事(つか)える」ことを意味した。史・使・事は一系の字。」とあります。頂部のうねりは木の枝が垂れる様です。また、吹き流しの部分は、旅や遊などの「㫃」(えん)と同様に右側に垂れます。(ただし、中山国の篆書「施」は左側に垂れる)また、「史」に含む器(さい)が「日」のように見える拓がありますが、接写画像を確認してみると、左右縦画が上に出る「」の形になっていることがわかります。

「小子」(少):2度目です。諸氏が「少」としています。「少」にはおとる、少ない、わかい、ちいさいなどの意があります。確かに、「幽」と「子」を重ねたものを「幼」とする例もありますが、私はこれを「小子」2文字を1字に見せる合文とするのが自然だと考えます。西周青銅器銘文では慣用語です。ただ、赤塚忠が述べているように、4字1句の句形文体に鑑みれば「少」の意、1字としてとらえるべきなのかもしれません。両渦紋と頭、腕を中央にまとめるように配置しています。

「女」(如):文意から、「如」の意を持つとされています。宋代に編集された勅撰の韻書(漢字を韻によって分類した書物で、字書の機能を持つ)である『集韻』に「如、古作女」とあります。「女」は元来の「おんな、むすめ」などの他に代名詞「汝」としても使われます。

 

戦国中山王圓鼎を習う(46)「祗寡人聞」

社禝其庶虖。厥業才(在)祗。寡人聞之。事少(小子)女長、事愚女智。此易言、而難行施。非恁與忠、其隹能之。其隹能之。隹(吾)老貯(賙)、是克行之。》

社稷 其れ庶(ちか)き虖(か)。厥(そ)の業は祗(つつ)しむに在り。寡人之(これ)を聞けり。少(小子)に事(つか)ふること長の如く、愚に事ふること智の如しと。此れ言ひ易くして行ひ難きなり。信と忠とに非ずんば、其れ誰か之を能くせむ。其れ誰か之を能くせむ。唯だ□(吾)が老貯のみ、是れ克く之を行ふ。》

 

「祗」():不明な点を抱えた字のひとつ。青銅器銘文の文脈に鑑みて、後に通用していた「祗」を充てたものと思われます。「祗」(し)にはつつしむ・まさにの意をふくみますが、字形を見てのとおり、「祗」の構造とはかけ離れていて、音も「氐」(てい)に従っていません。また、経籍には土地の神をさす「祇」(し・ぎ)と混用している例もあるようです。おそらくその混乱はかなり早くに生じていたものと思われます。さて、「祗」としたこの字は、西周青銅器の《郾侯簋》《召伯簋》《史牆盤》に登場しますが、いずれも籠のような器物を上下逆さまに重ねた形をしていて、容庚の『金文編』には索引に「祗」とともに形状に準じた「」を充てています。しかし、それでも上部は「甹」(へい)の金文のように最上部は屈折した飾りのようなものがあり、青銅器「卣」(ゆう)の初形である「由」ではないように思います。また、春秋期の《蔡侯諸器》の字例では長尺化とともに一部の譌変(かへん・誤ってかわること)を認めることができ、この時すでに混乱が生じていたことが窺われます。一方、中山国三器にみられるこの字形の下部は明らかに「而」となっています。おそらく当時の混乱を背景にして、当時の通音(し)に近い「而」を充て、上部との対称性をはかるために短い横画を加えたものと推測しています。上部の短い縦画をL字型に書いていますが、別の例では垂直にしています。

「頁」(寡):5回目の登場です。頭の部分を大きく書いてしまいました。最終画の縦画はこの字の中心に配置して書きます。

「人」:7回目です。「寡人」は王侯の地位にあるものをさす語。縦画が垂直になるように、かつ刻むようにして強い線になることが求められます。

」(聞):2回目となります。「耳」の下の弧を長くしすぎ、「氏」の左を丸めすぎました。前回のものは「日」の中は横画にしていましたが、この場合は点にしています。心憎い遊び心ともいうべきでしょうか。[字通]によれば、「卜文にみえる字の初形は象形。挺立する人の側身形の上に、大きな耳をしるす形で、望の初文が、挺立する人の側身形の上に、大きな目をしるすのと、同じ構造法である。その望み、聞くものは、神の啓示するところを求める意である。聽(聴)・聖の初形は、卜文の聞の初形に、祝詞の器の形である口(さい)を加えたもので、みな神の声を聞く意である。」とあります。説文古文に「」形の字を載せていますが、なぜ「昏」に従うのか。「爵」の楚簡にも「昏」に似たものがあります。次第に「昏」の字形に似たものになっていく過程を、金文の字形「」の速書きや簡略化による変化として包山、郭店、上海の諸楚簡に認めることができるようです。

戦国中山王圓鼎を習う(45)「虖厥業才」

社禝其庶虖。厥業才(在)祗。寡人聞之。事少(小子)女長、事愚女智。此易言、而難行施。非恁與忠、其隹能之。其隹能之。隹(吾)老貯(賙)、是克行之。》

社稷 其れ庶(ちか)き虖(か)。厥(そ)の業は祗(つつ)しむに在り。寡人之(これ)を聞けり。少(小子)に事(つか)ふること長の如く、愚に事ふること智の如しと。此れ言ひ易くして行ひ難きなり。信と忠とに非ずんば、其れ誰か之を能くせむ。其れ誰か之を能くせむ。唯だ□(吾)が老貯のみ、是れ克く之を行ふ。》

「虖」(乎):4回目。拙臨はやや幅広になってしまいました。字の中心線を意識に置いて書くようにします。

「厥」(氒):[説文]の字形から、この活字には大きな把手のある曲刀の形とする「氒」(けつ)を充てています。金文では「氒(そ)の事」「氒の徳」のように使われていますが、文献には「欮」(けつ)を声符とする「厥」を用います。ただ、字形を見る限り活字にある「氏」とは構造や向きに違和感を覚えます。字形からするとむしろ曲刀の一種「丂」(こう)の上を鈎型にしたもので、活字では「久」に近いものです。最終画は前半をほぼ垂直にして書きます。

「業」:構造からすると、掘るためにギザギザ状の刃がついた道具を両手で持つ形「菐」(ぼく)と祝祷の器「口」(さい)からなっており、「業」(しごと)の意で用いています。「厥(そ)の業」とは、社稷(しゃしょく・土地の神と五穀の神)を祀ること。シンメトリックな構成を意識して書きます。

「才」(在):2度目です。中央の三角形の部分が祝祷を納める器(さい)です。三角形をなす2つの斜線を簡略化したものが「才」です。下部の脚を長くして書きます。

戦国中山王圓鼎を習う(44)「社禝其庶」

社禝其庶虖。厥業才(在)祗。寡人聞之。事少(小子)女長、事愚女智。此易言、而難行施。非恁與忠、其隹能之。其隹能之。隹(吾)老貯(賙)、是克行之。》

社稷 其れ庶(ちか)き虖(か)。厥(そ)の業は祗(つつ)しむに在り。寡人之(これ)を聞けり。少(小子)に事(つか)ふること長の如く、愚に事ふること智の如しと。此れ言ひ易くして行ひ難きなり。信と忠とに非ずんば、其れ誰か之を能くせむ。其れ誰か之を能くせむ。唯だ□(吾)が老貯のみ、是れ克く之を行ふ。》

」(社):2度目となります。脚を持たない旁は下を空けて偏の脚を引き立てます。

「禝」(稷):旁の「畟」(しょく)は農業の神である田神。稲の形である「禾」は春秋戦国期の楚では「示」と書く例があり上海楚簡に認められます。「田」は鬼神の頭を表していますので、角を出しています。また、旁の足をあらわす「夊」(すい)は「コ」の形が「尸」のように増画して変化することがあります。例えば「夏」の古璽にその例を見ることができます。

「其」:箕の上部のくびれたところは何度書いても難しい部分です。拙臨は籠内を膨らませ過ぎました。

「庶」:崖である厂(かん)によって廟屋としたものが广(げん)です。この2つはよく通用します。「庶」は屋下にて煮炊きをする様です。「廿」の部分の古い字形は横画が左右に出ておらず、鍋などの器と思われます。