戦国中山王方壺を習う(50)

「王之祭祀」  (先)王の祭祀

「王」:4回目です。

「之」:同じく4回目です。

「祭」:神に供える肉「月」と手「又」、祭卓「示」とからなる字ですが、一般的な金文の配置と異なります。旁の肉を上にしたのは「有」と同形になることを避けるためと長脚を活かすためかと思われますが、造形上の秀でた感性を感じます。

「祀」:「巳」は蛇の形で自然神を祀る様を表す字です。方壺の(9)で先出した字は「巳」の腰に髭状の2つの線がつきますが、ここでは装飾的に渦紋を2つ加えていて、しかも向きが変わっていてとても興味をひきます。中山篆での渦紋は通常、巻き込むタイプと字の外側に放射状に展開した尾を持つタイプなのですが、この場合は尾を字の内側に向けているというべきか、あるいは斜め上に巻き上げるような形状をしています。このタイプは他には「」(位)の「胃」の腰部に見られるのみです。

戦国中山王方壺を習う(49)

(業)乏其先」  業を(絶ち)、其の先(王の祭祀を)乏ひ

」(業):「菐」の部分を構成する「」(ボク)は土木工事でいわゆる版築に用いるもの。空気を抜きながら土を固めるために先が櫛状に突起した道具です。これを両手で持つ形が「菐」で、「」は修祓のため祝禱の器「」がそれに加えられた形をしています。

「乏」:ここでは「うしなう」意となります。「乏」を白川静氏は仰向けになった屍体であるとし、また、字形からは「正」との近似性を認めることができます。そのことに関しては、「乏」と同音で、同様に屈葬の屍体を表したものに「亡」があり、その用例に「止」と近いもの(克鼎)があることからの孳乳(派生)かと思われます。なお、「乏」の金文は中山器以外での用例が知られておらず、同《兆域図》には略体があります。

「其」:4回目です。

「先」:2回目です。

戦国中山王方壺を習う(48)

(絶)邵(召)公之」  召公の(業を)絶ち

」(絶):「」(ゼツ)はこのように糸束を刀によって断絶する形です。染糸が弱って切れる様を表すと「絶」となります。「」にはすでに「刀」が入っていますが、この反文と「斤」(おの)によって構成される字は「斷」となります。

「邵」(召):声符の「召」は祝禱によって天より人の姿をした霊が降下する形。邑(阝)に従う場合は主に地名に関する場合ですが、ここでは周建国の際の功臣で燕の地に封ぜられた召公奭(ショウコウセキ)のことです。戦国の燕が周初の燕と血脈が繋がっていたことを示す記述です。

「公」:宮廷の儀式が行われる壁に囲まれた場所を示す形。「ム」の部分は四角形で区域を示す形の他、甲骨文に祝禱を納める器の形「」もあります。中山篆の形は小篆よりも原初の形に近いものです。

「之」:3回目です。

戦国中山王方壺を習う(47)

(易)立(位)ム(以)内」  (臣と宗と)位を易うるに(遭う。)以て内には

」(易):珠玉である「日」とそこから発する光を表す「勿」(ブツ)とからなる「易」が2つ、片方を倒形にして組み合わせた形をしています。「日」の部分が明瞭でない拓があるので注意が必要です。ここでは「あらためる・かえる」意となります。ちなみに、玉を台座に載せた状態は「昜」(ヨウ)です。

「立」(位):人が正面を向いて立つ形。「立」は「位」の意を持っています。

「ム」(以):9回目となります。

「内」:家屋の入り口の形です。入り口の外枠である「冂」(ケイ)と入り口のくぐる部分である「入」とからなります。中山篆には肥点が入ります。中山器での用例はこれが唯一のものです。戦国期以降、これを「納」に用いるようにもなります。

戦国中山王方壺を習う(46)

(侯)而臣宗」  (諸)侯に(求めず)して、臣と宗と(位を易うるに遭う。)

」(侯):邪気を祓うため屋下もしくは崖下に矢を射る儀を表す字。辺境の地を祓禳する役目を担うのが「侯」です。崖上に人が立つ形「矦」は戦国期、雲夢から出土した簡牘に見られるようになりますが、甲骨文など古い字形はすべてこの「」の形です。後に、この「侯」が爵号に用いられる様になったため新たに作られたのが「候」で「侯」に人偏を加え「うかがいみる」意を継承しています。ちなみに、崖下ではなく秘匿の場所を示す「匚」(ケイ)に呪具としての矢を置く形は「医」(エイ)です。

「而」:2回目です。

「臣」:大きく見開いて見上げた目の形。金文には瞳を示す一点を加える形もあります。《字通》によれば「金文にみえる小臣は王族出自の者で、聖職に従い、臣を統轄する。臣は多く神事に従い、もと異族犠牲や神の徒隷たる者を意味した。宮廟につかえる者を臣工といい、〔詩、周頌〕に〔臣工〕の一篇がある。金文の賜与に「臣三品」のようにいうのは、出自の異なる者三種をいう。また「臣十家」のようにいうのは、一般の徒隷と異なるものであろう。のち出自や身分に関することなく、他に服事するものをいう。」とあります。「臣」が表す目に針を刺したのが「民」でともに神への奉仕者として捧げられるものでした。

「宗」:廟屋を表す「宀」(ベン)と祭卓からなり、宗廟や祀られたみたまやを指します。祭卓の脚を一本にするのは古く甲骨文より見られる形です。中山篆ではそこに肥点が加わります。

 

戦国中山王方壺を習う(45)

「宜(義)不(求)者(諸)」  (大)義を(顧みず)、諸(侯)に求めずして、

 

「宜」(義):俎板(まないた)を表す「且」(ショ・ソ)に肉がいくつも載せられた形です。後になって「且」の外枠がウ冠に、肉(夕)を重ねた形が「且」となったもので、廟屋を表すウ冠ではありません。ここでは「義」に通仮させています。

「不」:5回目です。

」(求):捕捉器に足を捉われた鳥が脱去し得ない状況を示す「」(キュウ)が声符です。「舊(旧)」はみみずくのように角状の毛が頭部にある鳥の場合で、字義は「」と同じと考えられます。この「」字の意について、字形上の両際に阻まれた構造から例えば「窮」を連想しますが、諸賢は「究・救」などの諸説を呈示している他、白川静氏は「忌」、小南一郎氏は「求」であるとしています。今、ここではこの「求」説を採ることとします。意は「救いや助けをもとめる」といったものです。上下の二線は二つの間にあって極まる状態を示すもので、「亙」(コウ)・「亘」(コウ)・「恆」(コウ)・「亟」(キョク)などにみられるものです。(※これらは2線間にあるものが異なります。それぞれ、両岸の間にある舟、垣を巡る様、弓矢の弦、狭い空間に閉じ込められた人などとする説があります。)

「者」(諸):上部は「止」の形になっていますが関係はありません。呪禁の目的で祝禱の器「」の上に枝や土を被せた形で、左の2本の斜画は枝や土の一部が変化したものです。ここでは「諸」に通仮させています。

戦国中山王方壺を習う(44)

「徻(噲)不(顧)大」  (子)噲の、大(義)を顧みず、

「徻」(噲):燕王の子噲(シカイ)は《孟子》《戦国策》《史記》などの文献資料は全て「噲」の字が使われていると小南一郎氏は述べています。ここでは家の高い様で「噲」(クワイ)と音が近い「徻」(ワイ・エ)を用いています。なお、方壺でのこの後出および円壺には「辶」と「會」とからなる字を「會」として使っていますが、それは用いずあえて「止」を除いた「徻」を用いて区別したと考えられます。

ちなみに、「會」は蒸し器の形で、器の中の穀類や水蒸気の表現に様々なパターンがあることがわかります。中山篆は同じく戦国前期の「□(驫+厂)羌鐘(ヒョウキョウショウ)」(泉屋博古館蔵)にみられる、水蒸気を「水」の形で表現したものに変化が加わったものであることがわかります。

「會」 金文編

「不」:4回目です。

」(顧):「顧」の「雇」(コ)は神廟の扉の前で鳥占(とりうら)を行って神意を諮る様を表す字なので、「鳥」に替えた構成にしています。このような全形にした鳥偏は「於・焉」にもみられます。なお、「」は国字の「いすか」(鳥の名)と同形です。

「大」:人の正面の姿に象った字です。両腕を下げすぎないよう、また両脚の分岐点はほぼ中央にして書きます。

戦国中山王方壺を習う(43)

(遭)郾(燕)君子」  燕君 子(噲)の…に遭う。

」(遭):「」は「曹」の異体字の一つで、「遭」に通じます。「曹」は裁判の当事者双方から提供されたものを入れる橐(ふくろ)を並べた下に盟誓を収めた器「曰」(エツ)を配した構成であり、「」はその省体です。

「郾」(燕):3回目となります。

「君」:神杖を持った聖職者を表す「尹」(イン)と祝祷を収める器「」(サイ)とならなる字です。中山篆は「尹」が変化していて、これが説文の両手に順う別体の一系となります。

「子」:2回目です。ここでは燕国の易王の子で紀元前320年に即位した「子噲」(シカイ)を指しています。子噲は宰相子之(シシ)に禅譲し国政を委ねたことで国が乱れ、その機に乗じた齊によって燕国が倒されることになります。

戦国中山王方壺を習う(42)

「明(闢)光(適)」 (以て)辟の光を明らかにす。適(たまた)ま、

「明」:窓の形「囧」(ケイ)と「月」とからなります。「囧」は窓枠や窓の格子の形を表していると思われますが、その形状は複数あってこの字の様に中が点の様にするものは既に甲骨文にも認めることができます。なお、現在は「日」の形に変形してしまっているために太陽と月からなる字と誤解を招きかねません。

」(闢):2回目です。この字は本来、西周金文にあるように門を両手で開く形。「辟」は人の側身形と曲刀とそれによって腰をそぎ落とした肉塊とからなる字で「切りひらく」意があり、後にできた形声字です。「」に関連する「開」はその門の閂(かんぬき)を両手で外し開ける形です。

「光」:「火」と「儿」(ジン・ニン ひとあし)とからなり、火を掌る人を表す字です。中山篆では周囲に放つ光彩を4つの画で装飾的に表現しています。

」(適):「適」と通仮して「たまたま」の意となります。「啇」は「帝・口」の構成による「啻」(テキ・シ ただ)と同じです。中山篆ではこの「」の「帝」に肥点を加えていますが、単独の「帝」には入れていません。なお、「帝」の一部が「用」の様な形になっているのは、以前「貯」字について触れたとおり中山をはじめとする春秋戦国期にみられる譌変です。

戦国中山王方壺を習う(41)

「又(有)(輟)息ム(以)」 輟息有る(亡し)。以て

「又」(有):4回目です。

」(輟):この字は中山諸器の中で唯一の字ですが、構成素が多く、隷定に関しては所説紛々にして特定に至らない例の一つといえます。「河北省平山県戦国時期中山国墓葬発掘簡報」は「やめる」意を持つ「輟」とし、白川静氏もその説をとっていますのでここではそれに順うことにします。この他、李學勤氏は「舎」あるいは「窮」とし、于豪亮氏は右旁を「牽」の異体字とし、また、「遹」の金文体に「矞」部が両手に作るものがあり、それが変形したと思われる雨冠に作る異体字が「矞」にはあって、中山器の字形によく似ています。車や人も「辶」に関連するものです。この「遹」は説文に「回辟(避)なり」とありますが、「矞」の「ただす」意を持ってなる字ですから、「遹息」とは安息や休息の意になるものと思われ、この比定についても首肯できるようにも思えますが、構成素「牛」をどう理解すればよいか、依然として疑問点は残ります。

「息」:これも中山諸器にあっ唯一の字例です。鼻の象形「自」と「心」からなり、鼻息によって呼吸することを示す字です。

「ム」(以):8回目です。