戦国中山王圓鼎を習う(77)「寡人庸其」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「頁」(寡):7回目。ここまではすべて「寡人」の成語として出てきます。

「人」:9回目です。

「庸」:午(杵(きね))を両手でもつ形の「庚」(こう)と木を柵のように組む形である「用」からなります。そこに入れた土を杵でつき固め墉(かき)を作ります。「庸」には、かき・もちいる・つね・おろか等の意をもちますが、ここでは「力を合わせ尽くした勲功」の意とするべきで「功」にあたるものとされています。

「其」:8回目です。筆順はまず横画を2本水平に書き、籠形の曲線を左上から右上まで一筆で書くか、または左右に分けて底で合流させます。脚部の前半はほぼ平行に締めた結体にします。

戦国中山王圓鼎を習う(76)「克敵大邦」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

○「」(克):4回目。「克」と通用する「剋」(こく・きざむ)の俗体に「尅」がありますが、この字形はそれに拠った構造になっています。

○「㒀」(ちゃく)(敵)(てき):「みだり」の意なるも音が近い「㒀」をあてていますが、ここでは「あたる」の意で用いています。「啇」(てき)はもとは「啻」(し)。「帝」は先帝を祀る祭卓の形で、祝詞を入れる器「」(さい)が添えられて先帝の祭祀をあらわしています。なお、「帝」の一部が「用」の様になっている点については、『貯』字論で触れた通り『貯』に比定するための重要な例証の一つで、「」が「曰」になっていることも含め、装飾的融通性がなす中山篆の特性です。

○「大」:人の正面形。「大」を含む字は「天・夫・去・立」などが既に出ていますが、単体としては初めての登場です。

○「邦」:7回目です。偏旁は雁行させず、比較的正対した構図です。

戦国中山王圓鼎を習う(75)「列城數十」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「剌」(らつ・れつ)(列):「列」に通仮させています。「剌」はものを束ねて中に収める形「柬」(かん)と「刀」からなり、束ねられたものが解かれて散らばった様でしょうか。「刀」が「刃」になることはよくみられるものです。「刀」で断首された「」(れつ)を列べる様をあらわす「列」よりは穏やかですね。

「城」:(64)にある「成」のまさかりにつけた飾りの下に、肥点を共有する形で「土」(横画を1本)を加え「城」としています。ここで注意することは肥点の位置が下に移るということです。「城」の字は「土」に従うものと、城壁にある望楼に従うものとがあります。

 」(數):前回に続いて2回目です。詳細は前回のものを参照してください。

「十」:2回目です。甲骨文では同じ1本の線でも横画を「一」、縦画を「十」として区別していましたが、亀甲を用いた占卜で甲羅の裂け目と思われる「甲」も縦画1本であらわすことがあり、金文では「十」の縦画に肥点を加えるようになっていきます。なお、現在の活字「十」の形は甲骨文・金文では骨を切断する形である「七」となります。

 

戦国中山王圓鼎を習う(74)「方數百里」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「方」:3回目です。垂直な縦画と水平な横画の緊張感によって下部の斜画とのバランスを保っています。

」(數):前後の文意から「数」の意とされていて其の字を充てています。しかしながら、字形は「数」の構成素とされている「婁」とは一見異なるもので、両手の「」(きょく)と、「解」に含まれるものと同形の「角」、そして「言」からなるようにみえます。于豪亮は上部は「解」の省略体で、音符「角」が「数」の音に転じたとしていますが、なお、解明には遠い気がします。そこで、中山器の「覆」をはじめ、「要」の金文、「遷」の古陶文にその類似形が認められることから、ここでは「襾」(か)の小篆体に拠る「」も加えて隷定してみました。

「百」:[説文]の古文にこの字形が掲載されています。本来、「百」は音をあらわす「白」の上に「一」をつけたものですが、ここでは「白」ではなく「自」となっています。中山篆の装飾的増画とみてよいと思います。ちなみに、中山以前の金文は皆、上の横画が其の下の部分とついていて塞いでいるかのようです。現在の活字体の字形は小篆と同様に離れていますが、中山篆が長尺にするために加えた装飾表現が関係している気がします。なお、中山三器の円鼎に「全」の形をしたものを「百」の意と解している点については未だ解決に至っていない問題の一つです。

「里」:「田」と「土」からなりますが、音の説明がつきません。白川静は「吏」との語源的な関係を示唆しています。「田」をコンパクトにして「土」を引き伸ばす構成をとっています。

 

戦国中山王圓鼎を習う(73)「闢啓封疆」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

」(闢・びゃく):この字形をどのように隷定するか。赤塚忠は「」とし、小南一郎は「」としています。しかし、これは「」とすべきでしょう。中山三器の同要素を含む字を参照すれば自明なことだと思います。同要素を含む字は、「戒・朕・送・棄・與」を挙げることができ、その「廾」(きょう)には2本の横画を添えるのが中山篆の特徴となります。

「啓」:祭壇の扉の中に祝告の器「」(さい)を収めた形の「启」(けい)と木の枝で撃って促す形「攴」(ぼく)からなり、もとは神の啓示をいう字です。「」の上の空間に「攴」の手の部分を押し込むような構成をとっています。

」(封)」:[字通]から引用すると「丰(ほう)+土+寸。金文の字形には、土の部分を田に作るものがある。土は土地神たる社主の形で、社(社)の初文。そこに神霊の憑(よ)る木として社樹を植えた。封建のとき、その儀礼によって封ぜられる。」とあります。この中山篆は土が田に変わったもの、つまり土地神が田神に入れ替わったものとなります。なお、「丰」には肥点がつくのですが、その彫りが浅いために拓影に反映されないことがありますので、注意が必要です。なお、小篆では「寸」となっていますが、金文以前の古い字形は「又」となっています。

「彊」(きょう)(疆):ここでは「さかい・かぎり」の意で用いられていますので、「疆」が正しく、「つよい」意の「彊」は仮借字です。中山三器の方壺には「土」が加えられている字がありそのことが確かめられます。旁がややバランスを崩していますので、中心をとって整えて書くと良いと思います。

 

戦国中山王圓鼎を習う(72)「奮桴振鐸」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

」(奮):おそらくは「奮」の異体字と思われます。隹の尾を田を貫いて長脚にしている点は、中山国特有の造形です。[字通]には「金文の字形は衣+隹(とり)+田。金文の奪の字形は衣+隹+又(ゆう)(手)の会意字で、両者の字形に通ずるところがある。金文の奮・奪がともに衣に従うのは、哀・衰・褱(かい)(懷)・睘(かん)(還)など、死喪の礼に関する字がみな衣に従うのと同じく、奮・奪も霊の与奪に関する字であり、隹は鳥形霊の観念を示すものとみてよい。奮字の従う田は、舊(旧)字の従う臼とともに、鳥を留めておく器の形と考えられる。これによって留止することを舊という。奮はその留止をしりぞけて奮飛する意。奪は奮飛し奪去することを示す字と考えられる。」とあります。

「桴」:「桴」(ふ・ふう)には「いかだ」の意もありますが、ここでは「枹」(ふ・ほう)と同じで「太鼓のばち」の意です。旁を少し上に上げて木偏の脚を強調させます。

「䢅」(しん)(振):同音の「振」の意で用いています。上部は「臼」を充てていますが、本来は「貴」の貝を除いた部分。この部分は貝をつなげた形である「少」に変わることがあり、中山三器では方壺にある「遺」字にその形を認めることができます。「臼」の中にある鑪錘や線香花火のような部分は、なお不明ですが、神が憑依するための枝「丰」(ほう)の中心部とみる考え方、あるいは実の付いた稲穂、大きくなった根菜の形などとする他、臼を付く形「舂」(しょう)の古い字形に含まれる「午」(杵)とみることもできます。しかし、「少」の一部が残り、「掲げ、奉じる」意を持つものとして定型化したものと推測することもできる気がしています。

「鐸」:声符である「睪」(えき・たく)は獣が屍となって風雨に崩れんとする姿です。「目」の起筆をこのように書くのは「徳」と同じです。