戦国中山王方壺を習う(53)

「天子之庿(廟)」   天子の廟

「天」:2回目です。

「子」:3回目です。

「之」:6回目です。

「庿」(廟):字形の不安定な部分を若干修正して書いてみました。この字は「廟」を「庿」(ビョウ)に通仮させています。しかし、「庿」は[説文]に「廟」の古文として録しているものの、「廟」の声符「朝」(チョウ)とは異なります。「廟」の音が変化したためでしょうか。あるいは「廟」の声は本来はチョウとすべきなのでしょうか。「庿」形の字は「廟」の古文に採られており、その根拠の一つが戦国中山での用例なのかも知れません。《字通》には「〔隷釈〕(※[宋]洪適 撰)所収のものに庿の字はみえず、庿は北魏の〔元徽墓誌〕、隋の〔孔神通墓誌〕などに至ってみえる。」とあります。中山国遺址の発見は1974年ですから宋代の〔隷釈〕に中山方壺のこの用例が載っていないのも当然ではありますが、この戦国中山国においてすでに使用されていた「庿」形の字は「廟」の省形による異体字とみるべきなのかもしれません。「廟」の字は甲骨文にみると、まだ月が残る時刻、草原のかなたに日が昇る構成となっています。仮に「庿」を「朝」の要となる「艸・日・月」の「月」を略し、「日」が変化した異体字と推測するのは乱暴でしょうか。現に、中山篆では「昔」字において、「日」を「田」に変化させている例があるのです。この推論は中山方壺のこの「庿」(廟)字あたりからみられる、箍(たが)が弛みバランスを微妙に欠いた字形がいくつか(この後(56)の「」(上)など)混じるようになる点や円壺が冒頭のみ倉卒で稚拙な刻になっている点、兆域図などでは簡略体を用いている点、そして「庿」は古い時代での用例がないという背景を踏まえるとその可能性はゼロではない様な気がします。