戦国中山王圓鼎を習う(71)「不宜之邦」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「不」:5回目です。前回と異なって第一画に短い横画が入るタイプです。交叉する斜画によってできる▽は小さくします。

「宜」(義):ここでは「義」の意で用いています。白川漢字学では「宜」を廟屋と「且」の中に祭肉がある形からなるとしています。また、「且」がまな板とされていますので、まな板にお供えの肉をいくつも置く形となります。ただ、[字通]では「重ねる」意にはふれていないのですが、「且」の古い字形はみな上部が尖っていて、まな板の形状というよりも肉を重ねて置いた様、つまり側面図として見えなくもないですね。中央の2つの画は仕切りや重層の様を表しているように思えます。ちなみに、その2画を斜めにする例は西周金文にも存在しています。

「之」:13回目です。

「邦」:6回目です。器面の腐食や銹の影響で拓が鮮明でないものもあります。接写画像によって確認して習うことが求められます。

戦国中山王圓鼎を習う(70)「之衆以征」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

 

「之」:12回目となります。横画に至る直前で曲げるタイミングとその長さをつかむのはなかなか難しいです。

「衆」:「目」と3つの「人」からなる字で、城邑に住む人々をさしています。現在用いられている活字の「血」は誤りです。もとは城郭を示す口やその中に住むことをさす横画を添えたもの、あるいは儀式を執り行う宮廟の前をあらわす「公」に従うものもありました。中山三器では「目」をこのようにした字に「見・馬・省・相・德・斁・親・(懼)」があります。今回の字では「人」の脚の表現がやや冗長気味に感じます。

(ム)」(以):5回目です。起筆から湾曲させた右端がこの字の中心と考えて書きます。

「征」:ある対象に向かって赴く意の行人偏「 彳」(てき)と城郭に向かって進む意の「正」からなる字です。「正」は城郭の「囗」(い)と足の形「止」からなりますが、似た構造である「足」の膝頭(膝蓋骨(しつがいこつ))は四角を留め、片や「正」は横画に変化しました。中山国の篆書ではさらに装飾的に増画しています。

 

戦国中山王圓鼎を習う(69)「親率参軍」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

 

 」(親):[字通」には、「辛(しん)+木+見。神事に用いる木をえらぶために辛(針)をうち、切り出した木を新という。その木で新しく神位を作り、拝することを親という。〔説文〕八下に「至るなり」とし、また宀(べん)部の寴字条七下にも「至るなり」とあって同訓。寴は新しい位牌を廟中に拝する形で、金文には親を寴に作ることがある。父母の意に用いるのは、新しい位牌が父母であることが多いからであろう。その限定的な用義である。すべて廟中に新しい位牌を拝するのは、親しい関係の者であるから、親愛の意となり、また自らする意に用いる。」とあります。「親」として用いる中山国の篆書には他に「宀」と「新」からなる字もあります。

」(率):2回目です。水にさらした糸束を絞っている形「率」(固定する横木は省略)に「辶」が加えられていて、「ひきいる」意となります。前回の例よりも行人偏の下部を長く表現しています。

「參」:西周金文は、巫女の頭部にある3本の簪が明らかな字形です。[字通]によれば「厽(るい)+㐱(しん)。厽は三本の簪(かんざし)の玉の光るところ。㐱は人の側身形に彡(さん)を加えて、人の鬒髪(しんぱつ、黒髪のこと)の長いさま。」とありますが、「㐱」は側身形にした身体から放たれる光彩を表現したものと思われます。楚簡には側身形の左右に4点を対称に、周囲へ光彩を放つように配しています。中山篆はその4点を2つの渦紋に替えた表現です。

「軍」:「勹」(ほう)と「車」からなる字です。白川静は金文では「勹」を軍旗のなびく様としています。それに従えば、上部の短い2本の横画は「中」にもみられるような吹き流しではないかとも想像できます。ただ、一方で金文には「勤」など耜(すき)をあらわす「力」と近似したものがあり、この中山国の篆書はそれに類する系統であり、あるいは武具の一種ではと思わせる姿をしています。

中山三器「貯」字隷定問題(1)

前回登場した「貯」の隷定について、浅学を顧みず私の所見を紹介させていただきます。これは2017年9月に河北省石家荘市において中国河北省中山国文化研究会が主催する「中山篆書法篆刻学術報告交流会」にて発表したものから一部を抜粋したものです。今回を含め2回に分けて投稿します。この諸賢のご批正、ご指導を賜りたいと思います。

今回取り上げる問題の字の拓影は

円鼎拓より

となります。この戦国期の篆書を楷書(活字)体に当てはめようとする作業が隷定です。漢字の研究ではよく用いられる手法に中国音韻学による方法があります。その手法の一つは、同系の音韻は同義に通じる可能性が高いとするもので、それに拠った研究者および字説はよくみうけられるものです。しかし、同音異義も当然あるわけですから、強引な説解には誤謬の危険性を孕むことになります。今回の拙論はその切り口は採らず(そもそも門外漢ですから)、ただ漢字に親しみ、数多くの字例に関わってきた一人の表現者としての感性を拠り所にした判断にすぎません。以下、字形上の問題として掲げた2字の一つとして認めた「貯」字論です。

 

戦国中山王圓鼎を習う(68)「今吾老貯」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今)(吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「含」(今):2回目です。「含」は「今」と祝告を納める器「」(さい)からなる字で、「盦」や「飲」の古字である「㱃」(いん)にも含まれている「今」は栓をもつ器の蓋ですが、ここでは「今」の意で用いています。前例では栓の先端を「」の中に入れていませんが、今回を含む2例は中に納める形です。なお、この「含」を「今」として用いている他字の例には「念」があります。

」(吾):4回目となります。文字の中心を意識して全体をまとめます。

「老」:2回目です。『戦国中山三器銘文図像』のものはやや傾いているようです。修正して書いてみました。

「貯」:この字は、なお諸説紛々なものですが、あえて結論を言えば「貯」であると思います。諸氏では例えば、赤塚忠は「」、小南一郎は「」、白川静は「賙」をあてるという状態です。しかし、張守中が発掘後早々にまとめた詳細な研究報告の中で、この字を「貯」と隷定している説が最もうなずけるものと考えます。しかし、近年その張守中を師とする郝建文が『戦国中山三器銘文図像』の中で、これを「賈」(こ・か)としています。それはどうしたことでしょうか。「賈」の構成素であって器の蓋をあらわす「襾」(こ・あ)の形とはほど遠いものと思えます。なお、ここでは詳細に触れる紙葉がありませんが、ポイントは、中山三器の円壺に同字の速書きともいえる簡略体があり、それと比較すれば方向性が開けるのではないかと考えています。「貯」字論に関しては、小見拙稿を次回ご紹介しようと考えています。

 

 

 

戦国中山王圓鼎を習う(67)「憂勞邦家」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今)(吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「」(憂):「憂」は「」(ゆう)と「夊」(すい)からなる字ですが、「」が初文となります。頁(けつ)は儀礼に臨む人の姿で、夊はあちこち歩き回る意のたちもとおる(立ち徊る)形です。しかしすでに頁に足がふくまれていて重複しています。憂いごとを抱えて右往左往することを強調するために「夊」を加えたものです。中山国の篆書では中央に雁垂(がんだれ)のような画がありますが、これは「頁」の足部が変形したものと考えられます。中山三器の円壺にはそのことを裏付ける字例があります。

」(勞):「勞」はたいまつを束ねた形「」(えい)と「力」からなりますが、ここでは省略と「心」への交換がされています。この「勞」は中山三器では唯一の字です。

「邦」:5回目となります。偏の肥点と旁の折り返しの位置を概ね合わせて書きます。

「家」:犬などの生け贄を埋めて地の霊を鎮めた建物。これも中山三器で唯一の字です。中山三器で「豕」(し)を含む他の字例では小さな渦紋は身体の中には入っていません。しかし、この「家」の場合は接写画像で確認しても勢い誤ったとも思えず、あえて変化を加えたようにみえます。

「豊道春海と日本芸術院」

栃木県に生まれ、敗戦後の日本の書道教育と書藝術の恢復に尽力した豊道春海。その彼を顕彰する会の会報に投稿したものをご紹介させていただきます。「豊道春海と日本芸術院」と題した拙文です。拙齋蔵の春名好重宛書翰をもとに筆を執ったものです。(広告の段をカットしたもの)

 

会報17-6-7_

戦国中山王圓鼎を習う(66)「行四方以」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以(憂)勞邦家。含(今)(吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「行」:4回目。拙臨では右下後半に外へ展開し始めるところがやや早すぎました。

「四」:初回に続く2度目となります。他の字とは異なり、縦の字枠をすべて埋めるのではなく上下を空けた結構です。

「方」:2回目です。屍を横木に架け邑の境界地において外からの異族邪霊の侵入を防ぐ呪禁行為をさす字です。左下へ向かう2画の方向は平行ではなく若干閉じる傾向があります。

」(以):4回目です。中山三器だけで24例もある字です。「以」の意で用いるこの字は耜(すき)の形で一画で書きます。「以」の活字は「(ム)」と「人」からなっていますが、「人」が加わるようになったのは戦国期の雲夢秦簡あたりでしょうか。甲骨文、金文は「人」が入りません。従ってこれに充てる活字は「」以外にも、耜を祭祀によって清める象である「台」字の「ム」としても良いものです。なお、常用漢字「以」は現在5画とされているわけですが、正しくは4画とすべきで、現にそのように編集している字書に『古文字類篇』(高明 他編著)等があります。

 

戦国中山王圓鼎を習う(65)「身勤社稷」

※文章中に外字画像を貼り付けています。表示されていない部分はホームページからは閲覧できますので参照してください。
https://kanseirou.com

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以(憂)勞邦家。含(今)(吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「身」:身ごもっている女性の側身形です。右上の渦紋は「身」を含む「信」(人偏が身となる)と「體」(骨が身にかわる)では「し」のような簡略化したものになり、「身」単字で渦紋になっているのはこれだけです。しかし、中山篆書ではどちらの形に従うかについては融通性があります。下に、最近依頼を受けた「信」一字による拙作雅印を添えておきます。

「勤」:声符の「堇」(きん)は、饑饉などの災いを祓うために巫女である「」を火にかけて焚く形です。「力」は農耕の耜(すき)で、「勤」は当時の農耕がいかに困難を伴うものであったか、その労苦にめげず勤励する様をあらわしているように思えます。甲骨文の字例を下にあげてみます。頭に祝祷の器をつけ祭祀にあたる巫女であることを示す「」が後ろ手に縛られ火にかけられている、まさにおぞましい字形です。拙臨は「堇」を書いてから「力」を書いてみました。

」(社):土地の神を祀るための祭壇のこと。「社稷」とは周の時代から行われていた祭祀でしたが、秦漢以降は国家が行う祭祀の中心的な役割を担うようになって、「国家」をあらわす語となりました。「社稷」の語として今回で3回目の登場となります。

「禝」(稷):農耕神を祀るための祭壇。声符の「畟」(しょく)は農耕神の形。この2字は器面が傷んでいて拓影が明瞭ではありません。前例と接写画像を参考にして書くとよいでしょう。

「信」 (中山国篆書)
「堇」 (甲骨文編)