戦国中山王圓鼎を習う(55)「於虖攸哉」

於虖、攸(悠)哉。天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以(憂)勞邦家。含(今)(吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「於」:8回目の登場です。[字通]には「〔説文〕四上に烏の古文としてこの字形を出しているが、字形についての説明はない。金文の字形は、烏の羽を解いて縄にかけわたした形。烏も死烏を懸けた形で、いずれも鳥害を避けるためのもの。その鳥追いの声を感動詞に用いた」とあります。烏の死骸とそれを架けている人からなります。中山国の篆書では、烏というよりも尾長鶏の様な姿に美化されています。

「虖」(乎):これは5回目となります。拓によっては渦紋を繋ぐ横画がはっきり出ていないものがありますから注意が必要です。「乎」の初形は板の上に揺らすとカタカタと音を鳴らす遊舌(ゆうぜつ)がついた鳴子板の形です。左右の渦紋はその遊舌にあたるかもしれませんし、単なる中山特有の装飾的増画ともいえます。

「攸」(悠):ここでは「悠」を「思う」意で用いています。[字通]には、「人+水+攴(ぼく)。水は水滴の形に作る。人の背後に水をかけ、これを滌(あら)う意で、身を清めること、みそぎをいう」とあり、字形に木の枝でものを撃つ「攴」が含まれていることから、単に水をかけ流す程度のみそぎではないことが想像できます。上下2つの水滴の位置は縦に揃えるのではなく、それぞれの分間の中央に配した様に思えます。

」(哉):3回目となります。「才」は祝詞を収める器をつけた標木で、「戈」と共に構成される「」(さい)の「十」の部分が「才」ですが、西周金文には「禾」(いね)の様な形の例もあり、「戈」とともに祭壇に供えるものと思われます。なお、ここでの字形「」は戈に糸飾りをつけたもののようです。「哉」はすでに祝詞を入れる器が含まれている「」に、あらためてその器を付け加えている字となります。