戦国中山王圓鼎を習う(97)「宜也於乎」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの(義)を知るなり於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、越を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「宜」(義):3回目です。[説文解字]に「安んずる所なり。宀(べん)の下、一の上に從ふ。多の省聲なり」とあり、[字通]には「まな板(且)の上に多肉を置く形で廟屋をあらわす宀(べん)に従うのは後のこと」とあります。しかし、甲骨文や金文を通観すると、まな板というよりは祭肉の大きな塊か、層構造になった供物収納のための祭器のようにも見えます。一方、まな板の訓を持つ「俎」(そ)について、[字通]では「両肉片+且(そ)」としてはいるのですが、西周金文は「刀」と層構造に切り分けた際の境目を示すかのようなものが反対側に添えられる形で、それはどう見ても肉片には思えません。仮に、乾した薄肉からなる「昔」の異体字「㫺」と「俎」の偏との共通をあげるとしても、「俎」が「」の形を具するのはずっと後、戦国期になってからのことですから字源の説解には無理があります。また、この「宜」ですが、原初から西周に至るまで「宀」を伴うものはありません。そして戦国期以降になりますと、肉(夕または月)が2つではなく一つになるパターンが出てきます。中山王三器では円壺銘にそれを認めることができます。その系譜は現在の「宜」の活字形に繋がると思われ、「宜」の中の「且」は実は肉(月)が変化したものではないかと推測できるのです。その考え方で隷定すると「」とでもなるでしょうか。なお、臨書する際は、上下2つの「月」内の線の方向に微妙な変化があることを見逃さないようにしてください。

[古文字類編]且と俎
[古文字類編]宜

 

○「施」(也):4回目。旗をあらわす「」(えん)の内部は「冉」ではなく「它」の変化したものであることは既に述べたところです。上下2つの縦画の位置を若干ずらして構成させます。

○「於」:9回目となります。本来は烏の死骸を人が架けている姿で、活字への隷定は「」とでもすべきかもしれません。尾長鶏のような長く美しい尾がポイントです。

○「虖」(乎):6回目です。「虖」はほえる意ですが、音通により「乎」として用いています。「乎」は神事の際に音を鳴らす祭器で、遊舌のある鳴子板です。虎頭が入るものの中には、虎頭を被って軍神を祀るなど神事に関係があるものも含まれています。渦紋は装飾的表現です。なお、「虖」の他例では渦紋を結ぶ横画がありますが、ここでは接写画像を確認しても入っていません。それはまるで「參」が渦紋を結んでいないことに影響を受けているかのようです。

 

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