戦国中山王圓鼎を習う(98)「念之哉後」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、越を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「」(念):「含」と「心」からなります。「含」の声符「今」(きん)は音が変化する転声の範囲が広く、当時、この字は「念」と音が通じていた可能性があると赤塚忠は述べています。また、既に(37)で触れていますが、中山三器では「含」を「今」の意で用いることがあります。なお、「今」の右斜画を長くするのは戦国期の諸器および簡帛に見られる特徴の一つです。中山篆を創出した民祖がその嚆矢ということもあるかも、と妄想が湧きます。

○「之」:20回目(重文を含めて)です。

○「」(哉):5回目です。拙臨の場合は最初に「才」を書いています。

○「後」:一般的な「後」については、[字通]に「彳(てき)+幺(よう)+夊(すい)。〔説文〕二下に「遲きなり」と訓し、〔段注〕に幺は幼少、小足のゆえに歩行におくれる意とする」とあります。糸を捻った「幺」は「御」の甲骨文にも出てくるものでそれは金文では呪具の「午」(きね)に替わることから、同様に呪具であると考えられます。今回のこの字例を見ると、祝禱の器「」(さい)が入っていて、「辵(ちゃく)+幺+各」または「「彳+幺+夊+(さい)」という構成です。「」を付け加える構成としては先の「念」「覆」「退」と同様です。「各」は祝詞を奏して神霊が降格する意であることから、「後」は進退に関連した呪儀を示すものと白川静は説いています。