戦国中山王圓鼎を習う(108)「而喬毋衆」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年復呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而喬。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちてを併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「而」:6回目。前回に「而・需・天」の関係について字形上からの小考察を添えました。今回の「而」には上部に一画を増やすタイプで、中山三器にある13例のうち、4例あります。

○「喬」(驕):「夭」と「高」とからなるとされています。音はきょう、訓はたかい・おごる。ここでは「驕」(おごる)の意で用いています。「喬」自体にもその意があります。「高」は「京」と同様に軍営や都城の入り口にある望楼付きのアーチ状の門。この望楼の高い位置に呪禁のような目的で何かを供えた形と思われます。「たかい」という意はそこから派生します。また、「喬」とされる甲骨文の中には、「高」の上に手にものを持つ形「丮」(けき)とおぼしきものが載っているものがあります。甲骨文には「高」や「京」を含む字が複数あり、下に「羊」が置かれているもの、あるいは上に生贄をあらわす「義」が載っているものさえあります。一方、金文から戦国期楚簡に至る古い字形からは、呪器としての「力」(すき)や「喬木」らしきものなど数種は確認できますが、「夭」とおぼしきものは認めることができず、かつ、「高」の上部が何であるかがはっきりしません。[説文解字]の説く「高くして曲(まが)れるなり。夭に從ひ、高の省に從ふ」の拠依するものが不明です。管見では、「丮」か龍を表す「九」ではないかと考えています。

○「毋」:4回目です。

○「眾」(衆):2回目です。「目」と3人が列する形。もとは邑郭を表す「囗」(い)だったものが、郭内を示す一画が加わり、それが変化して目に変わっていきました。目を書く際の起筆が角として残っています。それでも「血」の形になる事例はなく、日本で制定された旧当用漢字が誤ってしまったものです。おそらく小篆が目に角が付いているため誤って活字体を「血」としたと思われます。