戦国中山王圓鼎を習う(18)「而皇在於」

「而」:前出のものより両腕を長めに両脚に寄り添わせます。中央の縦画はやや細めにします。

「皇」:鉞(まさかり)の形である「王」の上部に玉飾を加えている形です。古い字形では、上2本の横画を寄せるのが「王」で、等間隔にするのは「玉」となります。鉞の刃部を下にして玉座におき、王位の象徴とするようです。上の縦画と下の縦画を中心に揃えることが大切です。

「在」:標木に祝詞を収めた器をかけている形「才」で、中央の▽の部分がその器になります。「在」は「才」とやはり鉞をあらわす「士」からなり、「才」は「在」の初文になります。縦画を垂直にすることと、横画の位置、三角の大きさをどうするかで善し悪しが決まります。

「於」:既出です。左側、縦に3つ並ぶ巻き上げる線と右下への伸びやかな線のベクトルを調和させるよう配慮します。

戦国中山王圓鼎を習う(17)「爲天下戮」

「爲」:既出です。右側の腰のあたりの渦巻き文様による装飾的表現が中山篆書の特徴の一つです。筆を垂直にして運筆することで側筆を避けることができます。

「天」:前出のものより、最上部の横画を短く小さめにしたことで、懐が澄んだ張りのある佇まいになりました。

「下」:これも、前出のものより最上部の横画を短くしてより長身な姿にしています。縦画を垂直に紙を刻むように運筆します。

「戮」:頭部の一部と胸などの残骨の形である「歺」(がつ)と両翼と尾羽の形である「翏」(りょう)からなる「戮」(りく)の異体字で、誅殺されることをいいます。「為天下戮」(天下の戮となる)は戦国時代の常套的表現です。この字形には歪みがみられます。器は曲面ですし拓の状態や編集上の貼り付け方で微妙な違いが生じることを勘案し、他の同字を参照しながら習う必要があります。

戦国中山王圓鼎を習う(16)「而亡其邦」

「而」:字通を引用すると、「頭髪を切って、結髪をしない人の正面形。雨乞いをするときの巫女(ふじょ)の姿で、需とは雨を需(もと)め、需(ま)つことを示す字で、雨と、巫女の形である而とに従う。」となります。シンメトリックな姿になるようするのは意外と難しいものです。脚の分間に気をつけます。

「亡」:「辶」と「亡」からなる「亡」の異体字です。「亡」は死者の体を折り曲げた屈葬の姿。頭髪が残る様が「巟」(こう)です。なお、「无」は亡の異体字となります。ここでは「ほろぼす」意で用いられています。「亡」の字形には下部の小さな扇の中に短い横画を加えるものもあります。縦画の中央に肥点が入っているように見える拓もありますが、器面接写画像で確認すると、肥点に見える部分は縦画の線際が明瞭に残っているので傷と思われます。

「其」:既出です。箕籠の網の部分は「又」字のように書くこともあるようです。

「邦」:声符である(ほう)は「夆」の下部にあたるもので、禾の穂が高く伸びる様。「邦」は説文に「國なり」とあります。金文の字形は土主の上に若木を植えて社樹を示し、邑を加えて邦を建設する意となる字です。

戦国中山王圓鼎を習う(15)「惑於子之」

「惑」:或(わく)が声符。或には限定、例外の意があり、疑い惑う意があります。説文には「亂るるなり」とあって、惑乱することをいう字です。字形は頭部を下げ上部に広く空間をとって右上に伸びるベクトルを強調し、心の終画との協調によって大きな弧を演出します。

「於」:頻出する字で円鼎では5回目です。頭部をコンパクトに小顔にしています。

「子」:右に突き出す腰の位置に注意します。方向を変えるのでいわゆる転折の用筆と同様に少し筆を上げて転向させれば側筆を免れます。

「之」:横画の始筆と左の縦画の位置関係と中央の接点の位置に注意します。

 

戦国中山王圓鼎を習う(14)「勿矣猷粯」

「勿」:字通では、「弓体に呪飾をつけた形。その字の初形は、弓弦の部分を断続したもので、弾弦の象を示すものかと思われる。すなわち弾がい(祟りをもたらす獣を撃って邪霊を追い出す儀式)を行う意で、これによって邪悪を祓うものであるから、禁止の意となる。」としています。また、説文は氏族標識の旗を表すとしているのに対し、「卜文の字形は弓体を主とする形にみえ、金文の字形は、耒(すき)で土を撥(は)ねる形に作り、字形に異同がある。」としています。第1画は天上より垂直におろすようにして書きます。

「矣」:厶(し)と矢からなるとされています。厶の初形は耜(すき)の旁の部分(し)で耜の初文。耜に矢を加えて清め祓う意です。しかし、耜をあらわす厶(し)の部分は、二つのものがまとわる様である「丩」(きょう)の形と同じにしています。ちなみに、「句」の「勹」(ほう)の部分は人が身をかがめている象とされているのですが、甲骨、金文の字形を見る限り二つのものがからみまとわる形で、「丩」と同形であるように思えます。

「猷」:猷は声符の酋(しゅう・ゆう 酒樽の上に酒気が出る様)に犬牲をそえた形で、神を祀り、神意に謀(はか)る意です。偏旁から構成されますので、脚を持つ旁を伸ばし、偏の下を空けます。

「粯」:米と見からなる字ですが、「迷」の意で用いられています。くらむ意を持つ「眯」(べい)の異体字とみる見解もあります。これも偏旁からなる字です。「米」の縦画を強調する判断をしています。「見」の脚を強調するとどうなるか試されると良いと思います。

 

 

戦国中山王圓鼎を習う(13)「於天下之」

「於」:円鼎では4度目の登場。第1画の終筆での巻き上げは中山国篆書の特徴の一つです。2つの脚の間が字の中心になる意識で書くとまとまります。

「天」:人の正面立形の頭の部分を強調した形です。小篆の形の頭部の上に短い横画を添えます。両脚の分岐する位置に気をつけます。

「下」:殷周の古い字形は、手の平をふせて、その下に点を加え、下方を指示する象になっていますが、後に掌から下方に伸びる縦線が加わりました。中山国篆書の「天」の装飾的な繁画と同様に、上部横画の上に短い横画を加えるものが、戦国期の諸侯曾国の曽侯乙鐘に見られます。

「之」:湾曲する左の2画が上に向かって伸びるように書きます。

 

戦国中山王圓鼎を習う(12)「爲人宗閈」

「爲」:字通によれば、「象+手。説文三下に「母猴なり」とし、猴(さる)の象形とするが、卜文の字形に明らかなように、手で象を使役する形。象の力によって、土木などの工事をなす意。」とあります。

「人」:既に出てきました。脚部は垂直に下部を太くしないように書きます。

「宗」:字通によると、「宀(べん)+示。宀は廟屋。示は祭卓の形。説文七下に「尊祖の廟なり」とあり、宗廟のあるところ、またその祭る祖宗をいう。」とあります。祭卓の脚を2本略して書きます。

「閈」:字通を引用すると、声符は干(かん)。干は盾。防備用の門、説文十二上に「門なり」とし、「汝南の平輿にては里門を閈と曰ふ」とあり、古くは里門をいう語であったようです。「宗」と同様に左右対称に書きます。

戦国中山王圓鼎を習う(11)「弇夫悟長」

「弇」:合と両手の廾(きよう)からなり、「深い、ひろい」意を持ちます。説文の「蓋なり、合と廾の会意」としている点について、白川静は小篆の字形によって疑問を呈し、その甲骨文の字形から考えると婦人の分娩の形であるとしています。

「夫」:人の正面形である「大」と髪飾りの簪(かんざし)からなる字。男子の正装の姿ですが、それに対して女子が髪飾りをした形が「妻」となります。最終画の斜画の始筆は接点からではなく、少し上部からにすることがポイントです。

「悟」:字形は「豸」(たい)と「吾」からなります。この「豸」は「墜(地)」にも含まれています。腰のあたりにある渦巻き状の飾りは極めて細い刻線であるため拓影に顕れないことがありますので拓から習う際は注意が必要です。

「長」:「立」と「長」からなる字です。「長」は長髪が許された長老の姿。「立」が加えられた字例は戦国時代の韓の編鐘として知られる「□(厂+驫)羌鐘」(ひょうきょうしょう)にも見ることができます。「立」と「長」を緊密にして書きます。

戦国中山王圓鼎を習う(10)「君子徻睿」

「君」:聖職者の杖である「尹」と祝祷を収める器「さい」からなる字。中山国の篆書は左右対称になっていますが、本来は手に杖を持つ形です。

「子」:おさなごの形。古い字形は頭を大きくしていますが、ここでは八頭身美人のように小さく収め脚の長さを強調しています。

「徻」:子徻とは戦国期の燕王「噲」(かい)(在位 前320~前314)の名で、文献には「噲」の字を用いています。「會」は甑(こしき)に蓋をした形。春秋晩期の沇児鐘(えんじしょう)銘には「會」と「しんにょう」からなる字を「會」の意で用いています。このように、この時代はおおらかな通用のほか省画や変形そして装飾がみられます。「會」の下部は旁の中心を揃うことよりも偏旁の間隔が空いてしまうことを避けたようです。しかし、方壺の2例の通りに旁の中心を整えるほうが良いと思います。

「睿」:「睿」と「見」からなっていますが、「睿」や「叡」の異体字と思われます。「深い・あきらか」の意を持ちます。なお、字通では、「睿」の上部を「面を覆うている帽飾」としていますが、この字形を見れば明らかなように、本器銘の後半に出てくる「死」を構成し残骨を表す「歺」(がつ)と同源であるとみてよいと思います。

 

戦国中山王圓鼎を習う(9)「淵昔者郾」

「淵」:旁部が声符の(えん)。説文に「回(めぐ)る水なり」とあり、旁部は水の回流する形で、淵の初文です。「淵」は水の流れが複雑に交錯する様であるのに対し、崖の下から水が一方向に流れ落ちる場合が「泉」です。金文の字形では、これを上下対称にしたものが「淵」となっています。水流の一画に渦を巻く表現は「壽」に含まれる「疇」と似ています。

「昔」:肉を薄く切って陽に晒し乾肉を作っている様です。甲骨文や金文では肉が乾燥してしわしわになり波打っている姿で、2~3枚が重なるように並べられています。下の部分は「田」に変わっていますが、本来「日」で乾燥するまでの時間の経過を暗示させるものです。

「者」:木の枝を交叉させたものと土で祝祷を収めた器を覆う形。居住地の周りに外部からの邪霊の侵入を防ぐために土中に埋めるものです。そのようにして守られた邑が「都」です。中山国の篆書は「止」の形に変化しています。

「郾」:「燕」は周から春秋、戦国と命脈を保った国で、金文では音通により「郾」の字形を使っています。「郾」の偏部は、秘匿の場所において女子に魂振り(神気によって霊魂の活力を高めるための儀式)を行う様で、「晏」と同系の文字。中山国の篆書では、円鼎や方壺では玉(日)部を変化させて「日」には見えませんが、胤嗣円壺では「日」の形をとどめています。