戦国中山王圓鼎を習う(109)「而囂隣邦」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年復呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而喬。毋衆而囂。。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちてを併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「而」:7回目。上部に一画増やさないタイプです。

○「囂」:祝祷の器をたくさん並べる様を、「」(さい)を4つ並べる形を「」(しゅう)といいます。[字通]には「(しゅう)+頁(けつ)。は祝祷の器である(さい)を多く列する形。頁は儀礼のときの礼容を示す。その祈りの声のかまびすしいことをいう。〔説文〕三上に「聲なり。气(き)、頭上より出づ」とあり、頁を首、を口気と解する。およそに従う器(器)・嚚(ぎん)・嘂(きよう)などの字は、みな多くの祝告を列して祈ることに関する字で、口気を示すものではない。」とあります。嚚はおろか、わるいという意で、嘂は叫と同字です。に従う字は他にも「噩」(咢)などがあります。この「囂」からは4つの鬚のような装飾を加えた「頁」との表現上の関連を感じとることができます。

○「」(吝・隣):音はりん、訓はおしむ・やぶさか・はじるなどです。音の近い「隣」として用いています。

○「邦」:9回目です。偏の脚を少し短めに書いてしまいましたが、接写画像で確認すると、若干短いくらいでほぼ旁の脚と同じ長さです。

戦国中山王圓鼎を習う(108)「而喬毋衆」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年復呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而喬。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちてを併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「而」:6回目。前回に「而・需・天」の関係について字形上からの小考察を添えました。今回の「而」には上部に一画を増やすタイプで、中山三器にある13例のうち、4例あります。

○「喬」(驕):「夭」と「高」とからなるとされています。音はきょう、訓はたかい・おごる。ここでは「驕」(おごる)の意で用いています。「喬」自体にもその意があります。「高」は「京」と同様に軍営や都城の入り口にある望楼付きのアーチ状の門。この望楼の高い位置に呪禁のような目的で何かを供えた形と思われます。「たかい」という意はそこから派生します。また、「喬」とされる甲骨文の中には、「高」の上に手にものを持つ形「丮」(けき)とおぼしきものが載っているものがあります。甲骨文には「高」や「京」を含む字が複数あり、下に「羊」が置かれているもの、あるいは上に生贄をあらわす「義」が載っているものさえあります。一方、金文から戦国期楚簡に至る古い字形からは、呪器としての「力」(すき)や「喬木」らしきものなど数種は確認できますが、「夭」とおぼしきものは認めることができず、かつ、「高」の上部が何であるかがはっきりしません。[説文解字]の説く「高くして曲(まが)れるなり。夭に從ひ、高の省に從ふ」の拠依するものが不明です。管見では、「丮」か龍を表す「九」ではないかと考えています。

○「毋」:4回目です。

○「眾」(衆):2回目です。「目」と3人が列する形。もとは邑郭を表す「囗」(い)だったものが、郭内を示す一画が加わり、それが変化して目に変わっていきました。目を書く際の起筆が角として残っています。それでも「血」の形になる事例はなく、日本で制定された旧当用漢字が誤ってしまったものです。おそらく小篆が目に角が付いているため誤って活字体を「血」としたと思われます。

戦国中山王圓鼎を習う(107)「而肆毋富」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年復呉、克并之至于含。爾毋大。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちてを併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「而」:5回目です。「而」について、[字通]を引用すると、「[説文解字]には「頬毛(きょうもう)なり。毛の形に象る」とし、髵(じ)(ひげ)の初文とみている。〔段注〕に「須(ひげ)なり」と改め、その象形であるという。」とあるのに対して、「頭髪を切って、結髪をしない人の正面形。雨乞いをするときの巫女(ふじょ)の姿で、需とは雨を需(もと)め、需(ま)つことを示す字で、雨と、巫女の形である而とに従う。」と別の解釈を示しています。ところが、この「而」の字形は「天」ととてもよく似ており、しかも、「天」が甲骨文によく見られるのに対して、「而」としての明確な事例は西周晩期から東周の祭器にあたるものが殆どです。単に頭髪を切り取る姿であれば「兀」(ごつ)でよいわけですが、ここでは「巫女」であることが重要で、だとすると「天」の表す姿も「巫女」なのではないか、とさえ想像が膨らみます。[易経]睽(けい)に、「其の人、天せられ、且つ劓(はなき)らる」とあるのは、「天」を髪を切る刑を意味する動詞として用いているのだそうです。篆文ではとても紛らわしい「天」と「而」。両字の関係はかねてより気になってきているところですが、この問題についての明瞭な説解を望みたいところです。

○「 」(肆):「心」と祟りの意を持つ「」(し・てい・い)とからなります。同音で恣(ほしいまま)の意を持つ「肆」に通じています。この中山篆は甲骨文の「」の形に則った構造に思えます。

○「毋」:3回目です。

○「富」:声符は畐(ふく)。畐は腹の大きい酒樽の形。[字通]では富は神に多く供えることを原義とする字であろうとしています。活字の「田」の部分は横画が2本になっていますが、それは他の金文にも見られるものです。

 

戦国中山王圓鼎を習う(106)「今爾毋大」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年復呉、克并之至于含。爾毋大。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちてを併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「含」(今):3回目です。「今」は壺などの器物の蓋または栓のようなもの。酒壺に栓をしたのが「酓」(あん)です。白川静漢字学では「口」形のものの殆どが祝祷を収める器「」(さい)としています。しかし、この「含」については口鼻の「口」としている数少ない事例です。古代中国では死者の口を塞ぐ風習があります。2004年9月、「中国国宝展」が東京国立博物館にて開催されました。出陳された文物の中でも特に注目を集めたのが1995年に江蘇省徐州市の獅子山の楚王陵(前漢・楚王とは諸侯王の称号)から出土され、見事なまでに復元された金縷玉衣でした。古代中国では遺体を冷やすことでその腐敗を防げると考えて、玉衣を纏わせ、玉器で耳、鼻、口などの「九竅(きょう・穴)」を塞ぐなど、さまざまな工夫をしたとされています。「含」の「今」はそのための玉器だったのかも知れません。その例として、下に故宮博物院が所蔵する「白玉蝉唅」の画像を貼っておきます。ちなみに、祝祷の器に蓋を被せる場合は「吾」となります。

白玉蟬唅(はくぎょくせんかん) [故宮博物院HPより][https://www.dpm.org.cn/collection/jade/233791.html]

○「」(尒・爾):2回目です。[字通]では「人の正面形の上半部と、その胸部に(り)形の文様を加えた形」とあり、胸に文身(入れ墨)を加えた「爽」の上半身の形が「爾」にあたるとしています。しかしながら、「爾」の甲骨文を見ると人体の胸郭には見えず、金文での文身の部分を比較しても同じものには思えません。管見では呪具としての「飾り矢」の可能性があるとみています。また、「尒」の活字の縦画が離れている点については、戦国期の事例あたりからそのタイプが出てくるものの、原形に沿ったものではなく、これは「爾」の中央を貫く縦画の上部ですからやはり離すべきではないと思います。

○「毋」:音は「ぶ・む」、訓は「なかれ・なし」。2回目です。この字は中山王円鼎の銘文にある5例すべてが最後の部分に集中します。それは権謀術数うごめく春秋戦国の時代に在って、中山王が頼らざるを得ない相邦(家臣の長)貯に向かって、権力に驕り溺れることがないよう、そしてこの中山国を裏切ることがないよう、あえて他国で実際に起きた事例をあげながら、釘を刺そうとしているに他なりません。

○「大」:2回目。人の正面形です。中山篆は悠然と手足を広げる様が美しい造形です。

 

戦国中山王圓鼎を習う(105)「并之至于」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年復呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちてを併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「并」:2回目です。

○「之」:重文を含めると22回目です。

○「至」:射られた矢が地に至る象。[字通]には「至は矢の至るところによって地を卜し、そこに建物などを営んだ。それで室・屋・臺(台)などの字は至に従い、また一系をなす」とし、[説文]の「鳥飛んで高きよりし、下りて地に至るなり。一に從ふ。一は猶ほ地のごときなり。象形」と、鳥が地に下る象とする説解に対して牽強付会を指摘しています。中山諸器の兆域図には中央縦画が省略された字形が出てきます。上部左右の斜画の角度によって雫形の大きさや形状が変わることに注意して書きます。

○「于」:4回目です。

 

戦国中山王圓鼎を習う(104)「年覆呉克」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年復呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○[秊」(年):2回目です。稲などの穀類「禾」(か)とそれを担ぐか被る「人」からなる字で、農耕の儀礼をあらわすものです。「禾」は稲穂の実ったのみが肥点で表される場合がありますが、この場合は微妙にして線をなだらかに肥らせる表現にしています。これと同様な表現は、同器の「」(童)の「重」の部分(穀物を入れる袋の上から稲穂が出ている形)、円壺の「和」、方壺の「穆」にも使われています。なお、垂穂の線は「×」形の交差点に続くものですが、拓によってはそれが鮮明に出ていないものもあるので注意が必要です。

○「復」(覆):声符は「复」(ふく)。「复」の字形は量器の下に、「止」を逆さまにした「夊」(すい)を加え、動きが伴うこと表しています。つまり、ものを量る器を上下ひっくり返しながら、中の穀物を均等に収めるものと思われます。ただ、ここでは「くつがえす」意の「覆」に仮借しています。「覆」の本字の頭部は「襾」(か・あ)であり、この「襾」は器口に蓋や栓をしておおう形です。量器から穀物がこぼれ出ないように覆って上下ひっくり返すので、「くつがえす」意となるわけです。中山篆の字形は戦国期の字例と比較すると、「首」(頁・道など)や「會」にみられる表現に通じる装飾的な形状になっていることがわかります。なお、「襾」を構成素とする字には他に「賈」などがありますが、旧字体に構成素とする「要」の場合は腰骨や骨盤をあらわすものなので「襾」を用いるは本来適当ではありません。

○「呉」:(101)に続いて2回目です。頭の左への傾きに呼応するかのように、祝禱の器「」を右に傾けています。

○「」(克):6回目です。上部を右に傾けていますが、他の字例ではすべて正対していますので、修正して書いてもよいと思います。

戦国中山王圓鼎を習う(103)「斅備恁五」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「斅」(教):音は「がく・こう」。「學」の異文で「教」と通じています。[古文字類編]では「學」は「斅」の省体であって同字として扱っています。「旁に鞭を持つ形は教えるで、鞭の無いものが学ぶ」とは明確に区別されていなかった可能性があります。

○「」(備):「備」は「人」と矢の収納器である「」(箙・えびら)から構成され、人が箙を背負う形。「用」の上には矢羽根の部分が出ています。中山篆では箙の下に、それを背負う人を重複して書き加えたものと思われます。その形が、「敬」や「羌」、つまり羊のかぶり物をした姿と似ているために、春秋以降の字例には互いに混用したものが認められます。現在の活字形に近いものは戦国期、湖北省雲夢から出土した睡虎地秦簡の中の[效律]に見られ、「羌」の様に変化してしまった一群とは一線を画していることがわかります。

○「恁」:2回目です。[字通]には「音はイン・ジン・ニン、訓はおもう・やすらぐ・このように」とあり、また、〔王孫遺者鐘〕の「余(われ)、台(わ)が心を恁(やす)らぐ」の件を引いています。ここでもそれと同様の意で用いています。なお、この字を「保」としたり、「信」とする説もありますが、「信」については中山三器の方壺に「言・身」からなる字形を用いています。なお、「任」として用いている「賃」の字形と比較すると「壬」の形が異なっています。

○「五」:板を交叉させて器物の蓋にした形です。祝禱の器に被せると「吾」になります。やや縦を抑えて小ぶりに書きますが、疎画の字をまとめるのはかえって難しいものです。

戦国中山王圓鼎を習う(102)「并越々人修」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「并」:音はへい。側身形2人が並ぶ「从」(じゅう)の脚を繋げている形です。

○「粤」(越)々:雨冠の形に変化していますが、もとは宀(べん)と(べん)からなる「宷」(はん)と「亏」(う)から構成される字ですが、音は「えつ」となって「越」に仮借しています。「宷」は獣掌を神聖な廟屋に供える形で、「奥」と構造は同じです。「粤」は金文では「ここに・これ」などの発語に用いられることがあります。

○「人」:13回目です。

○「」(修):音はしゅう。「攸」(ゆう)と「食」からなり「修」に音通しています。「攸」は人に水をかけ木の枝葉で背後洗っている形です。横に密な構成は長脚を特徴とする中山篆にあっては珍しい造字法です。

 

戦国中山王圓鼎を習う(101)「昔者呉人」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、越を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「昔」:4回目。(97)の「宜」でも触れましたが、「昔」は薄く切った肉を乾したものです。異体字である「㫺」の上部は肉が乾燥してしわしわになった状態を表わしたものですが、中山三器円壺にその字形があります。

○「者」:これも4回目です。祝禱の器の上に交叉させた枝を重ねて呪禁(じゅごん)とし、外からの邪霊侵入を防ぐもの。中山篆の字形は「止」のような形を用いていますが本来からは随分異なるものです。なお、左下に伸びる斜画が一本となる例は、円壺に登場する1例と、同様に簡略体によって刻された他の中山諸器にあります。しかし、中山三器の円鼎と方壺での7例の中ではこの字例のみです。斜画が1本ですと、[字通]で、死者の衣の上に玉とともに履き物(止)を置く象とする「袁」と同形になってしまいます。余談になりますが、この「者」の字については、秦の始皇帝が丞相李斯に命じて制定した秦篆(小篆)の形が他の多くの字例とは異質の構造を持っている点が気になるところです。解明に益する資料が少ない中で、唯一といってよいと思いますが、北宋時代に発見された秦の文字とされる『詛楚文』(秦の始皇帝が楚王を批判している内容)の「者」が当然ながら最も近く、また楚系の『楚王酓鼎』や『郭店楚簡』にもその系に準じた姿を認めることができますが、資料が少なくなお判然としないのは残念なことです。なお、「袁」を「止」と「玉」と「衣」からなるとする考え方ですが、管見では「止」では左下に伸びる線についての説明が足らず、これは「之」とするべきと考えます。中山諸器の時代に近い『哀成弔(叔)鼎』の字例をあげておきます。

赤井清美著[篆隷大字典]より

○「呉」:祝禱を納める器を掲げて舞う姿です。[字通]を引用すると「」(そく)+口。口は祝禱を収めた器((さい))の形。は人が手をあげて舞う形。片手に祝禱の器をささげて、神前で舞うのは、神を娯(たの)しませる意で、呉は娯・悞の初文とみてよいとあり、また、「」は身を傾けて舞う形。両手をあげ、身を傾けて舞う形は笑。また神を楽しませる所作をいう。そのあでやかな姿を夭・妖(よう)という。呉・笑・妖はみな神前に舞う姿を写す字である。」とあります。今回の字も敢えてやや頭を傾かせています。

○「人」:12回目となります。繰り返しになりますが、この字の縦画は行の中心にもなっています。