戦国中山王圓鼎を習う(105)「并之至于」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年復呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちてを併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「并」:2回目です。

○「之」:重文を含めると22回目です。

○「至」:射られた矢が地に至る象。[字通]には「至は矢の至るところによって地を卜し、そこに建物などを営んだ。それで室・屋・臺(台)などの字は至に従い、また一系をなす」とし、[説文]の「鳥飛んで高きよりし、下りて地に至るなり。一に從ふ。一は猶ほ地のごときなり。象形」と、鳥が地に下る象とする説解に対して牽強付会を指摘しています。中山諸器の兆域図には中央縦画が省略された字形が出てきます。上部左右の斜画の角度によって雫形の大きさや形状が変わることに注意して書きます。

○「于」:4回目です。

 

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