戦国中山王圓鼎を習う(103)「斅備恁五」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「斅」(教):音は「がく・こう」。「學」の異文で「教」と通じています。[古文字類編]では「學」は「斅」の省体であって同字として扱っています。「旁に鞭を持つ形は教えるで、鞭の無いものが学ぶ」とは明確に区別されていなかった可能性があります。

○「」(備):「備」は「人」と矢の収納器である「」(箙・えびら)から構成され、人が箙を背負う形。「用」の上には矢羽根の部分が出ています。中山篆では箙の下に、それを背負う人を重複して書き加えたものと思われます。その形が、「敬」や「羌」、つまり羊のかぶり物をした姿と似ているために、春秋以降の字例には互いに混用したものが認められます。現在の活字形に近いものは戦国期、湖北省雲夢から出土した睡虎地秦簡の中の[效律]に見られ、「羌」の様に変化してしまった一群とは一線を画していることがわかります。

○「恁」:2回目です。[字通]には「音はイン・ジン・ニン、訓はおもう・やすらぐ・このように」とあり、また、〔王孫遺者鐘〕の「余(われ)、台(わ)が心を恁(やす)らぐ」の件を引いています。ここでもそれと同様の意で用いています。なお、この字を「保」としたり、「信」とする説もありますが、「信」については中山三器の方壺に「言・身」からなる字形を用いています。なお、「任」として用いている「賃」の字形と比較すると「壬」の形が異なっています。

○「五」:板を交叉させて器物の蓋にした形です。祝禱の器に被せると「吾」になります。やや縦を抑えて小ぶりに書きますが、疎画の字をまとめるのはかえって難しいものです。

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