ホームページのメニュー《中山篆書法篆刻学術報告交流会》からご覧下さい。
『戦国中山三器銘文図像』郝建文 著(文物出版社)
待望久しき書籍。ようやく手に入れることができました。
『戦国中山三器銘文図像』郝建文 著(文物出版社)
戦国時代中山国から出土した三器銘文の文字1100字あまりについて精細な接写画像を編集したもの。中山篆研究ではこれまでにはない画期的な資料になります。
中山国は戦国時代、趙、燕、斉などに囲まれていた小国。中興を挟む通歴がわずか200年ほどであるにもかかわらず、中山国で通用したその文字は多様な形態が百花繚乱する戦国期にあっても色褪せず、独特の美しさを際立たせています。
この中山国は現在では河北省石家荘市周辺にあたります。1970年代から1980年代にかけ、石家荘市の北西部平山県では、都城である霊寿城遺跡や中山王さく墓が発掘されています。出土品としては金・銀・銅・玉・陶器など絢爛たる文物や器中の酒が当時のまま発見されており、その後日本でも、1981年3月から5月にかけて東京国立博物館にて開催された「中国戦国時代の雄 中山王国文物展」は大きな話題となったようです。これらの出土文物は現在、河北省博物館に保管されています。
2017年9月、私は中国河北省中山国文化研究会が主催する「中山篆書法篆刻学術報告交流会」に台湾の中山篆研究の第一人者である黄嘗銘先生のご推薦による招聘を承け拙い研究発表をさせていただきました。その折のこと、発掘現場の見学から移動すること数時間、河北省博物館を訪れた際の大勢の児童生徒らが説明に耳を傾け熱心に見入る姿には、感動すると共に、自国の文化に対する教育のあり方、両国の違いについては深く考えさせられるものがありました。
著者の郝建文(かくけんぶん)先生は楚簡研究や中山国器銘文研究の第一人者である張守中先生を師とする研究者で、師との共著『郭店楚簡文字篇』などでも知られています。
以下、『戦国中山三器銘文図像』の表紙などを写真にて一部紹介します。特に、解説部に載せた研究報告『戦国中山三器鋳銘刻銘之観察』は、従来の中山諸器銘文が鋳造ではなく後から刻されたものという常識に再検証を促すほどの重要な発表となるかもしれません。古文字研究を拓本に頼る危険性については、私もかねてより指摘してきましたが、ようやく原器の接写画像によって検証する手法がはじまったことによろこびを隠せません。そして、その機会を提供する判断を下した関係機関の英断には喝采を惜しみません。
「師古遊心」
「師古遊心」は私の学是としているものです。
古典を師としてその魅力無窮なる世界に心遊ぶことを理想に掲げています。書にしても篆刻にしても師と崇める対象は無限に存在していますから、厭くことはありません。しかも月謝などというものは要らず(文物書籍代はそれ以上にかかるけれど)、ストレスの原因となるような不本意な忖度も必要ありません。かつて、迷った末に離れることを選択しましたが、先師からの「総てに通じる学び方」を通じた、視野を広げ感性に活力を与えてくださった絶大なご恩は、今でも決して忘れることはできません。「師古遊心」中山国篆による書と甲骨文と古璽の篆刻二貌です。
「襲明大道」(大道を襲明す)『老子』河上公注より
老荘思想や道教の始祖として知られる老子は、春秋時代の哲学者です。しかし、生卒年は不詳であり、彼が遺したとされ、5千数百字に及ぶ『老子(道徳経)』の成立や内容についても、神格化が進んだために謎が多く、漢の河上公(かじょうこう・この人物も詳細不明)や魏の王弼(おうひつ)によるものをはじめとする多くの注釈書が生まれています。
実際に書写された最古の出土資料としては、1993年に郭店一号楚墓から出土した残簡(郭店楚簡)があり、他には1973年に馬王堆漢墓から出土した2種類の帛書(『老子帛書』甲・乙)が知られています。
「襲」は即位儀礼の際に重ね着として羽織る衣装(袞衣(こんえ、こんい))で龍の紋様が施されているもの。「かさねる・つぐ・おそう・きる」などの義を持っています。「襲」の字形は衣の上部に「龍」の省形が並んでいて、あでやかで荘厳な刺繍を髣髴とさせます。「襲明」は明を襲ぐ。絶対的な知識・智慧を受け継ぐこと。「大道」は『老子』十八に「大道廢(すた)れて仁義有り。智慧出でて大僞有り。六親和せずして孝慈有り。國家昏亂して忠臣有り」とあります。
「襲明大道」とは、大道を襲明すと読み、大いなる道を修め、絶対的な知を承け継ぐ意となります。
「襲明大道」
60㎜×58㎜
「曼陀羅」 ステンドグラスとのコラボレーション
密教の世界観を視覚的な図象をもって表した「曼陀(荼)羅」。そこに漢字の宇宙観を準えた試行作品です。「曼陀羅」は日本の重要文化財などでは「曼荼羅」と表記されています。ただ、これはサンスクリット語 मण्डल(maṇḍala)の音を音訳表記しただけのものですから、「陀」でも良く、秦以前の古い字形の表現の素材を求めてこちらを採りました。
なお、サンスクリット語のमण्डल(maṇḍala)には「丸い」という意味があります。拙作は3円を楼閣構造に見立てたフォルムを採用し、さらには家蔵の饕餮文尊の器拓(原拓)とステンドグラスとのコラボレーションにも挑戦してみました。
「鑄人褱」 鋳人の褱(懐)い
鋳人とは人材を育成することを指す言葉。「人を育てることについて深く思いを致す」 今、この書作品は栃木県教育委員会の教育長室に飾られています。
篆刻の作品も掲げておきます。私の教員人生は、迷いながら、苦しみながらに終始した39年間でした。それがそのままにじみ出ている出来の作品です。
「木鷄」(もっけい)『荘子』達生篇
ウクライナをめぐる情勢にふと浮かんだ旧作。力を振りかざし我が物顔に行動してくる輩に対して、どう対処するべきか。
「木鷄」は『荘子』達生篇にでてくる語。紀渻子(きせいし)という者がある王のために闘鶏を養成したのだが、みるみるうちにその頭角を現すも養成を了とせず、40日が過ぎた時には、木でできた鶏のように、敵の威圧にもまったく動ぜずして相手の戦意を萎えさせるほどまでに最強になったという一節に登場する。
「…鷄雖有鳴者、已無變矣。望之似木鷄矣。其徳全矣。異鷄無敢應者、反走矣。」(鷄鳴く者有りと雖も、已に変ずること無し。之を望むに木鷄に似たり。其の徳 全し。異鷄 敢て応ずる者無く、反りて走る、と)
新釈漢文大系によれば、「達生篇には、いわゆる神技に到達した境地を説話によって展開したものが多く、無心忘我の心境を得て知功の念を捨て去るところに至極の技があることを述べ、ひいて天地自然に順応して一切の人知をしりぞける時に至人の域に至ることを論じている」とあります。
この旧作、今となってみれば補刀の誘惑に駆られるほど拙作です。両字とも甲骨文の字形を基本としつつも、力を内包する金文の穏やかさを加味した表現で、疎密の構成に凛と屹立する闘鶏の姿を投影しようとしたものです。
「詩書爲伴」 詩書 伴(とも)と為す
「詩書爲伴」や「與詩書爲伴」は中国では小説などでもときどき目にする言葉のようですね。この印は、今から16,7年ほど前に、中国浙江省杭州市の画家賞竹老師の嘱に応じて刻した印です。当時は、栃木県と浙江省が友好提携締結15周年を迎えるのを記念し、栃木県書道連盟と浙江省書法家協会による「栃木県・浙江省書法友好交流展」を西湖を臨む景勝地に立つ西湖美術館で開催しようとしていた時で、栃木県側の事務局長として、その準備のために現地との間を慌ただしく往来していた時だったと記憶しています。今ではとても懐かしい思い出となっています。
「襄首奮翼」 『漢書』鄒陽伝より
この印文「襄首奮翼」(首を上げ翼を奮う)の4字はどれも魅力的な造形を有しています。
最初の「襄」ですが、この造形とその字源の解釈には、かねてより強い関心を抱いてました。白川静先生著『字通』には「衣+吅(けん)+㠭(てん)。衣は死者の衣。その襟もとに、祝禱の器(口(さい))を二つおき、また呪具の工を四個おいて塡塞(てんそく)し、邪気が放散することを防ぎ、禳(はら)うのである。ゆえに襄は「禳う」「攘(はら)う」の初文。金文の字形は、衣の間に種々の呪具をおく形に作る。」とあります。
しかし残念ながら、その説の前段を裏付ける字例(字形)を「襄」の関連字を含め戦国期以前に見いだすことは終ぞできず、浅学の身としては悶々とするばかりです。金文の字形からは、死者の衣襟に置かれた様々な呪具と眉飾を施した巫女の姿ばかりが目に映ります。この謎めいた象形が、実は創作意欲を心地よく刺激してくるのです。下には字書の一つ「古文字類篇」の該当頁を載せておきました。
印文「襄首奮翼」は「首を上げ翼を奮う」と読み、前向きな気持ちに切り替えて行動しよういう意に捉えました。『漢書』鄒陽伝に出てくる句です。つまりここでは本来「祓う(禳う)」意である「襄」を「上げる」の意に用いているわけです。その点については、春秋時代あたりに成立したと目される『書経』尭典に「陵(をか)に襄(のぼ)る」の襄が、驤字の義であるとしています。「驤」字は秦漢印に用例を見ることはありますが、実はさらに遡って春秋期には登場していたということになり、その時には「襄」と通用していたということになります。とはいえ、厳密にいえば周代金文を「あがる」や「のぼる」の意で用いるのは好ましくないのかもしれませんね。篆刻の難しい問題の一つです。
「襄」には「衣」を略したものがあります。「奮」の金文の構成素「衣」と重複することを避けるためにこの字形を採りました。「首」と「翼」のベクトルによる織成も狙いの一つです。
他の3字についても簡単に触れておきます。「首」は頭髪を強調した首の貌。まさにおぞましい姿をさらけ出しているようです。首を逆さまに懸けて髪が垂れる形は「県」(郻の偏部)、その県に屍体であることを示す「匕(か)」をつけたのが「真(眞)」です。
そして「奮」。金文の字形は衣、隹(とり)、田から構成されています。死者の霊が舞昇るさまを鳥形を以てし、霊が収まっていた場所を田形にしているわけです。田形は田畑の田ではなく、「思」のように心の働きを掌る場所や魂の宿る場所として用いることがあります。(口の中は+の場合と×の両方があり、「脳」の小篆は×系、「鬼」は+系、「思」はその両系) そこから鳥形と想像した霊が身体から遊離して飛び立つ姿というわけです。ちなみに「奪」はその遊離せんとする鳥形の霊を下から手でとらえようとする象です。
最後は「翼」。「翼」は正字を■(上に「飛」、下に「異」)に作り異(よく)を声符とする字で、異は鬼形の神の象です。構成する字画のベクトルが多彩で、篆刻の表現では魅せられる素材の代表格といって良いと思います。
「夏虫疑氷」 『荘子』(秋水篇)より
「夏虫疑氷」(かちゅうぎひょう)を漢印風泥調に刻したものです。
この句の意味は、「夏の虫は氷というものを知らないので、その存在を疑う」となります。見聞が狭いこと、見聞の狭い人は広い世界を理解しえないこと、見識の狭い人が自分の知らないことを信じようとしないことのたとえとなります。
出典となる『荘子』の秋水篇には、「井蛙不可以語於海者、拘於虚也。夏蟲不可以語於氷者、篤於時也」(井蛙(せいあ)は以て海を語るべからざるは、虚に拘ればなり。夏蟲は以て氷を語るべからざるは、時に篤ければなり)とあります。意味は「井戸の中の蛙が海のことを語れないのは、穴の中の世界にこだわっているからであり、夏の虫が氷のことを語れないのは、自分が生存する時節にとらわれているからである」となるでしょうか。この件(くだり)からは「井蛙之見」、「井底の蛙大海を知らず」などの類語もよく知られています。
ちなみに中国は広大な国土を有するがゆえに、遠方の地については未知であり、時に未開の地として見下す傾向もあります。関連する次の二句も記しておきます。
「遼東之豕」(りょうとうのし)『後漢書』(朱浮伝)「往時遼東有豕、生子白頭、異而献之。行至河東見群豕皆白、懐慙而還。若以子之功論於朝廷、則為遼東豕也」
「夜郎自大」(やろうじだい)(『史記』(西南夷伝)「滇王與漢使者言曰 漢孰與我大 及夜郎侯亦然 以道不通故各自以為一州主 不知漢廣大」※夜郎は漢武帝の勢力が及ばずその大きさを知らなかった小国。自大は自らを大なりとすること。
「夏」の字形は、白川静先生によれば「舞冠を被り、儀容を整えて廟前にて舞う人の形」とあります。本来は祭祀儀礼に舞う姿であって、中国や季節の名として使われるのは春秋期からなのだそうです。
」