戦国中山王方壺を習う(22)

[所放慈孝」  放(なら)う所、慈孝

「所」:2回目となります。「斤」を除いた部分は左扉の形です。

「放」:方は逆さに架けられた屍でこれを打って邪霊を放逐して祓う様です。「放」には「はなつ・はなす・ほしいまま・おく」などの意がありますが、「倣」と通じ「ならう、まねする、のっとる、にかよう」の意も持ちます。ここでは「ならう」の意です。

「慈」:茲と心からなりますが、「茲」の初形は糸束である幺(ヨウ)を並べた(ジ)です。「茲」は上部にある糸たばの結びめを艸(ソウ)と誤まったものです。

「孝」:先の「考」と同様で、「老」に含まれる屍をあらわした「」(カ)を略したものに「子」を組み合わせた形です。「おやおもひ」の他、「父母や先祖をまつりつかえる・年輩者によくつかえる」意をもちます。右の「乙」形の画はもともとは左の部位と一体のものですから接するようにして書きました。

戦国中山王方壺を習う(21)

[孫用隹朕」  (子)孫に(施及し)用ひん。隹(こ)れ朕(わ)が

「孫」:子と系からなる字です。「系」は呪飾としての糸束が垂れる様ですが、長く繋がる様から血脈の系列にある存在を示しています。

「用」:木を組んで作った柵状のもの。取っ手をつけると甬となります。文章中では「もって」と読んで訳します。

「隹」:尾の短い鳥の形です。文章中では「これ」という発語になりますが、後に「唯・惟・維」を用いるようになります。右の弧状の画は本来直線的なものですが、中山篆の特色として、このように線の動きを活発にさせるため線のベクトルを外に向かって放射するように変化させます。

「朕」:正字はで舟と(そう)からなります。は両手でものを奉ずる形です。《字通》には「殷代の卜辞に王位継承の順位者を示す語として子(し)・余(よ)・我・朕があり、特定の身分称号であったが、それらがそのままのち、代名詞となった。金文に朕を一人称所有格に用いる。…朕の本音はヨウ。古くは一人称の所有格に用いた。朕(ちん)とよんで天子の自称とするのは、秦の始皇帝にはじまる」とあります。なお、中山篆では両手でものを奉ずる形について、両手の間に短い横画を装飾的に加えます。朕以外では例えば「戒・送・弇(エン)・棄・彝・闢()・與」などです。ただし、「與」に関連する「舉」などのように両手の間に別の要素が加わる場合は二画を入れません。加えて、「奔」については両手で奉ずる形「廾」(キョウ)が「卉」の中にあるようにみえますが、これは足早に奔る様である「歮」(ジュウ)が誤って変化したものです。中山篆ではこの「奔」を「止」ではなく、「山」形を列べる形にしています。

戦国中山王方壺を習う(20)

[ム(以)阤(施)及子」  以て子(孫)に施及し

「ム」(以):「ム」は「私」と同字で「㠯」(耜 すき)の形。さらに「㠯」と「人」からなる「以」のもとの字でもあります。※すき(耜)を「㠯」の形にすることに関しては金文編に収録されている字形を見る限り妥当ではなく、上の四角形の左縦画を空かした「」とすべきです。「㠯」では「師」の祭肉の甲骨文と同形になってしまいます。

「阤(陀)」(施):「施」とは声符「也」(イ)を介しての通用となります。この字形は「阤・陀・陁」(音はタ・ダ・イ、義はくずれる・ななめ等)いずれにも隷定します。偏は神梯(神が昇降する梯子)で旁の「也」は蛇の象形(匜という水器などの説もある)とされています。

「及」:人と手をあらわす又とからなります。後ろから手を伸ばし前の人に及ぶ形です。中山篆では上の人の部分を一画増やしています。

「子」:殷周の字形は頭部が大きい幼児の象形ですが、中山篆では長脚にするため8頭身のようなスマートな体型となります。

 

戦国中山王方壺を習う(19)

[(純)悳(德)遺(訓)」  純徳遺訓(有り)

」(純):「純」の糸が束になった形。「束」は薪などのたば、「糸」は糸たば、ともに束ねた状態のもので、通用していたと思われます。「屯」も糸に関係する字で、「トン・ジュン・チュン」の音を持ち織物の糸の端を結び止めた形です。

「悳」(德):徳の意で用いられています。悳は直と心からなり、直は省に隔絶を示す乚(イン)を加えた形。省は目に呪飾「」(テツ)を加えた形で、セイの音に誘因され「生」に似せて肥点を加えるようになったと思われます。ただ、直と省の呪飾には明らかな違いがあり、直の場合は左右に分岐する画はありません。また、直の乚(イン)は省略することもあり、徳の字形はその乚(イン)を略した直と、目に呪飾を加えて地方所領を巡察に行くことから付いた彳(テキ)と心からなるものが一般的です。ただ、まれに呪飾が(テツ)になるもの(王子午鼎)や彳(テキ)が辵(チャク)になるもの(王孫遺者鐘)などの例があります。今回のこの「悳」の字は乚(イン)と目の間隔が空きすぎた感がありましたので若干修正を施しました。

「遺」:音は「イ・ユイ」ですがもとは声符である貴の音であったと思われます。《字通》には「(キョク)+貝。貝を両手で捧げる形。貴重なものとして扱う意を示す。〔説文〕六下に「物賤(やす)からざるなり」とし、字形を貝に従い、臾(ゆ)声とするが、声が合わない。」とあります。貝の部分は貝や玉などを綴った形「少」としています。

」(訓):川と心からなります。川には古く「クン」の音があったと思われ、ここでは「訓」の意として用いられます。川の音の変化は他にも「順」の「ジュン」があり、この字はそれらと通用しています。

戦国中山王方壺を習う(18)

[成考是又(有)」  成考、是れ(遺訓)有り。

「成」:字通に「卜文・金文の字形は、戈(ほこ)に綏飾としての丨(コン)を加える形。器の制作が終わったときに、綏飾を加えてお祓いをする意で、それが成就の儀礼であった。」とあります。

「考」:声符は曲刀を表す丂(コウ)。〔説文〕によれば「老」と互訓です。また、「老」が「長」(長髪の老人)と人の倒形で屍体の形「」(カ)からなるのに対して、「考」は「長」と腰の曲がった姿に似る曲刀「丂」を組み合わせたものです。また、〔礼記、曲礼下〕には「生前は父と曰ひ、母と曰ひ、死後は考と曰ひ、妣と曰ふ」とあって、父母を祀るときには考妣(コウヒ)を用います。

「是」:匙(さじ)の形。「是」が「これ」などの別義に用いられるに及んで「さじ」は是と同様に「さじ」の意を持つ「匕」(ヒ)を加えた字ができました。

「又」(有):右手の形。金文では「右・有・佑・侑」などの意に用いられます。中山篆では「夕・祀・爲」などのように渦紋を装飾的に追加する場合と「爾・余」などのように点画の一部を渦紋に替える場合とがありますが、この「有」としての「又」は「月」を渦紋に替えたものとみることもできるような気がします。

 

戦国中山王方壺を習う(17)

[文武(桓)(祖)」  文武、桓祖

「文」:甲骨文や金文の字形は、人の正面形の胸部に文身(入れ墨)の文様を加えた形です。それより「あや・もよう・かざり」の意を持ちます。ここでは、この方壺の作者である(サク)に繋がる中山国の初代から4代までの王統について触れています。つまり、中山国王の系譜は①文公(中山国初代の君主)②武公(B.C.414即位、B.C.406魏によって滅ぶ)③桓公(B.C.380頃 中山国を復興)④成公⑤(サク)(方壺、円鼎の作者)⑥ (シシ)(円壺の作者でB.C.299に趙に敗れ、逃亡先の齊で死去)⑦尚(中山国最後の王、B.C.296 趙の武霊王によって中山国は滅ぶ)となっています。

「武」:足の形で歩の省略形である止(し)と武具のほこである戈(か)からなり、戈(ほこ)を執って行軍することをいいます。

」(桓):走繞のこの字は通常エンと発音しますが、声符の「亘」はカンの他、エンの音も持ちます。字形は二線を配した区画の間でめぐる形。ここでは「」が「桓」の仮借字として使われているようです。「桓」は軍営で武功を表彰するところに立てられた標木で、武勇の勇ましさをさす字ですが、ここでは中山国第3代の王名となります。

」(祖):前回に続いて2回目です。

戦国中山王方壺を習う(16)

[隹朕皇(祖)」  隹れ朕が皇祖

「隹」:2回目となります。

「朕」:が正字。祭器の盤である「舟」と両手でものを奉ずる形「」(そう)からなる字。金文では一人称の代名詞で用い、秦になって始皇帝がこれを以て自称するようになりました。

「皇」:2回目です。

」(祖):一般的な「祖」と違い、中山篆は祭卓「示」と祭祀に供える肉片を列べた形「俎」と手を表す「又」とからなる字です。

戦国中山王方壺を習う(15)

[以憼(警)嗣王]   以て嗣王を警(いま)しむ

「ム」(以):3回目です。

「憼」(警):「敬」は10回目に登場していますが、もともと「敬」は生け贄の羌人と祝禱の器を打って神意に責める字で「いましめる」意を持ち、後に神への心意に特化して「うやまう」意が付加されるに及んで、「いましめる」意に「憼(儆)・警」などが孳乳しました。中山国諸器では方壺で「敬」と「憼」(警)を区別して使用しているのにも関わらず、侯鉞では「敬」の字形をそのまま「憼・儆・警」として用いる例が認められます。戦国期中山篆の鷹揚性ともいえる一例です。

「嗣」:この字について《字通》には「司(し)+口((さい))+冊(さく)。司は祝禱の器()をひらいて神意を伺う意。冊は冊祝して神に告げる意。嗣続の大事を以て神意を問うものであろう」とあります。重複する(さい)を間に据えた構成には中山国人の秀でた造形感性をみることができます。

「王」:3回目です。縦画の位置は「嗣」の「冊」中央の縦画に揃えて書きます。