《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字
《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、越を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。》
○「昔」:4回目。(97)の「宜」でも触れましたが、「昔」は薄く切った肉を乾したものです。異体字である「㫺」の上部は肉が乾燥してしわしわになった状態を表わしたものですが、中山三器円壺にその字形があります。
○「者」:これも4回目です。祝禱の器の上に交叉させた枝を重ねて呪禁(じゅごん)とし、外からの邪霊侵入を防ぐもの。中山篆の字形は「止」のような形を用いていますが本来からは随分異なるものです。なお、左下に伸びる斜画が一本となる例は、円壺に登場する1例と、同様に簡略体によって刻された他の中山諸器にあります。しかし、中山三器の円鼎と方壺での7例の中ではこの字例のみです。斜画が1本ですと、[字通]で、死者の衣の上に玉とともに履き物(止)を置く象とする「袁」と同形になってしまいます。余談になりますが、この「者」の字については、秦の始皇帝が丞相李斯に命じて制定した秦篆(小篆)の形が他の多くの字例とは異質の構造を持っている点が気になるところです。解明に益する資料が少ない中で、唯一といってよいと思いますが、北宋時代に発見された秦の文字とされる『詛楚文』(秦の始皇帝が楚王を批判している内容)の「者」が当然ながら最も近く、また楚系の『楚王酓鼎』や『郭店楚簡』にもその系に準じた姿を認めることができますが、資料が少なくなお判然としないのは残念なことです。なお、「袁」を「止」と「玉」と「衣」からなるとする考え方ですが、管見では「止」では左下に伸びる線についての説明が足らず、これは「之」とするべきと考えます。中山諸器の時代に近い『哀成弔(叔)鼎』の字例をあげておきます。
○「呉」:祝禱を納める器を掲げて舞う姿です。[字通]を引用すると「」(そく)+口。口は祝禱を収めた器((さい))の形。は人が手をあげて舞う形。片手に祝禱の器をささげて、神前で舞うのは、神を娯(たの)しませる意で、呉は娯・悞の初文とみてよいとあり、また、「」は身を傾けて舞う形。両手をあげ、身を傾けて舞う形は笑。また神を楽しませる所作をいう。そのあでやかな姿を夭・妖(よう)という。呉・笑・妖はみな神前に舞う姿を写す字である。」とあります。今回の字も敢えてやや頭を傾かせています。
○「人」:12回目となります。繰り返しになりますが、この字の縦画は行の中心にもなっています。