戦国中山王圓鼎を習う(106)「今爾毋大」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年復呉、克并之至于含。爾毋大。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちてを併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「含」(今):3回目です。「今」は壺などの器物の蓋または栓のようなもの。酒壺に栓をしたのが「酓」(あん)です。白川静漢字学では「口」形のものの殆どが祝祷を収める器「」(さい)としています。しかし、この「含」については口鼻の「口」としている数少ない事例です。古代中国では死者の口を塞ぐ風習があります。2004年9月、「中国国宝展」が東京国立博物館にて開催されました。出陳された文物の中でも特に注目を集めたのが1995年に江蘇省徐州市の獅子山の楚王陵(前漢・楚王とは諸侯王の称号)から出土され、見事なまでに復元された金縷玉衣でした。古代中国では遺体を冷やすことでその腐敗を防げると考えて、玉衣を纏わせ、玉器で耳、鼻、口などの「九竅(きょう・穴)」を塞ぐなど、さまざまな工夫をしたとされています。「含」の「今」はそのための玉器だったのかも知れません。その例として、下に故宮博物院が所蔵する「白玉蝉唅」の画像を貼っておきます。ちなみに、祝祷の器に蓋を被せる場合は「吾」となります。

白玉蟬唅(はくぎょくせんかん) [故宮博物院HPより][https://www.dpm.org.cn/collection/jade/233791.html]

○「」(尒・爾):2回目です。[字通]では「人の正面形の上半部と、その胸部に(り)形の文様を加えた形」とあり、胸に文身(入れ墨)を加えた「爽」の上半身の形が「爾」にあたるとしています。しかしながら、「爾」の甲骨文を見ると人体の胸郭には見えず、金文での文身の部分を比較しても同じものには思えません。管見では呪具としての「飾り矢」の可能性があるとみています。また、「尒」の活字の縦画が離れている点については、戦国期の事例あたりからそのタイプが出てくるものの、原形に沿ったものではなく、これは「爾」の中央を貫く縦画の上部ですからやはり離すべきではないと思います。

○「毋」:音は「ぶ・む」、訓は「なかれ・なし」。2回目です。この字は中山王円鼎の銘文にある5例すべてが最後の部分に集中します。それは権謀術数うごめく春秋戦国の時代に在って、中山王が頼らざるを得ない相邦(家臣の長)貯に向かって、権力に驕り溺れることがないよう、そしてこの中山国を裏切ることがないよう、あえて他国で実際に起きた事例をあげながら、釘を刺そうとしているに他なりません。

○「大」:2回目。人の正面形です。中山篆は悠然と手足を広げる様が美しい造形です。

 

戦国中山王圓鼎を習う(105)「并之至于」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年復呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちてを併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「并」:2回目です。

○「之」:重文を含めると22回目です。

○「至」:射られた矢が地に至る象。[字通]には「至は矢の至るところによって地を卜し、そこに建物などを営んだ。それで室・屋・臺(台)などの字は至に従い、また一系をなす」とし、[説文]の「鳥飛んで高きよりし、下りて地に至るなり。一に從ふ。一は猶ほ地のごときなり。象形」と、鳥が地に下る象とする説解に対して牽強付会を指摘しています。中山諸器の兆域図には中央縦画が省略された字形が出てきます。上部左右の斜画の角度によって雫形の大きさや形状が変わることに注意して書きます。

○「于」:4回目です。

 

戦国中山王圓鼎を習う(104)「年覆呉克」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年復呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○[秊」(年):2回目です。稲などの穀類「禾」(か)とそれを担ぐか被る「人」からなる字で、農耕の儀礼をあらわすものです。「禾」は稲穂の実ったのみが肥点で表される場合がありますが、この場合は微妙にして線をなだらかに肥らせる表現にしています。これと同様な表現は、同器の「」(童)の「重」の部分(穀物を入れる袋の上から稲穂が出ている形)、円壺の「和」、方壺の「穆」にも使われています。なお、垂穂の線は「×」形の交差点に続くものですが、拓によってはそれが鮮明に出ていないものもあるので注意が必要です。

○「復」(覆):声符は「复」(ふく)。「复」の字形は量器の下に、「止」を逆さまにした「夊」(すい)を加え、動きが伴うこと表しています。つまり、ものを量る器を上下ひっくり返しながら、中の穀物を均等に収めるものと思われます。ただ、ここでは「くつがえす」意の「覆」に仮借しています。「覆」の本字の頭部は「襾」(か・あ)であり、この「襾」は器口に蓋や栓をしておおう形です。量器から穀物がこぼれ出ないように覆って上下ひっくり返すので、「くつがえす」意となるわけです。中山篆の字形は戦国期の字例と比較すると、「首」(頁・道など)や「會」にみられる表現に通じる装飾的な形状になっていることがわかります。なお、「襾」を構成素とする字には他に「賈」などがありますが、旧字体に構成素とする「要」の場合は腰骨や骨盤をあらわすものなので「襾」を用いるは本来適当ではありません。

○「呉」:(101)に続いて2回目です。頭の左への傾きに呼応するかのように、祝禱の器「」を右に傾けています。

○「」(克):6回目です。上部を右に傾けていますが、他の字例ではすべて正対していますので、修正して書いてもよいと思います。

戦国中山王圓鼎を習う(103)「斅備恁五」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「斅」(教):音は「がく・こう」。「學」の異文で「教」と通じています。[古文字類編]では「學」は「斅」の省体であって同字として扱っています。「旁に鞭を持つ形は教えるで、鞭の無いものが学ぶ」とは明確に区別されていなかった可能性があります。

○「」(備):「備」は「人」と矢の収納器である「」(箙・えびら)から構成され、人が箙を背負う形。「用」の上には矢羽根の部分が出ています。中山篆では箙の下に、それを背負う人を重複して書き加えたものと思われます。その形が、「敬」や「羌」、つまり羊のかぶり物をした姿と似ているために、春秋以降の字例には互いに混用したものが認められます。現在の活字形に近いものは戦国期、湖北省雲夢から出土した睡虎地秦簡の中の[效律]に見られ、「羌」の様に変化してしまった一群とは一線を画していることがわかります。

○「恁」:2回目です。[字通]には「音はイン・ジン・ニン、訓はおもう・やすらぐ・このように」とあり、また、〔王孫遺者鐘〕の「余(われ)、台(わ)が心を恁(やす)らぐ」の件を引いています。ここでもそれと同様の意で用いています。なお、この字を「保」としたり、「信」とする説もありますが、「信」については中山三器の方壺に「言・身」からなる字形を用いています。なお、「任」として用いている「賃」の字形と比較すると「壬」の形が異なっています。

○「五」:板を交叉させて器物の蓋にした形です。祝禱の器に被せると「吾」になります。やや縦を抑えて小ぶりに書きますが、疎画の字をまとめるのはかえって難しいものです。

戦国中山王圓鼎を習う(102)「并越々人修」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「并」:音はへい。側身形2人が並ぶ「从」(じゅう)の脚を繋げている形です。

○「粤」(越)々:雨冠の形に変化していますが、もとは宀(べん)と(べん)からなる「宷」(はん)と「亏」(う)から構成される字ですが、音は「えつ」となって「越」に仮借しています。「宷」は獣掌を神聖な廟屋に供える形で、「奥」と構造は同じです。「粤」は金文では「ここに・これ」などの発語に用いられることがあります。

○「人」:13回目です。

○「」(修):音はしゅう。「攸」(ゆう)と「食」からなり「修」に音通しています。「攸」は人に水をかけ木の枝葉で背後洗っている形です。横に密な構成は長脚を特徴とする中山篆にあっては珍しい造字法です。

 

戦国中山王圓鼎を習う(101)「昔者呉人」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、越を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「昔」:4回目。(97)の「宜」でも触れましたが、「昔」は薄く切った肉を乾したものです。異体字である「㫺」の上部は肉が乾燥してしわしわになった状態を表わしたものですが、中山三器円壺にその字形があります。

○「者」:これも4回目です。祝禱の器の上に交叉させた枝を重ねて呪禁(じゅごん)とし、外からの邪霊侵入を防ぐもの。中山篆の字形は「止」のような形を用いていますが本来からは随分異なるものです。なお、左下に伸びる斜画が一本となる例は、円壺に登場する1例と、同様に簡略体によって刻された他の中山諸器にあります。しかし、中山三器の円鼎と方壺での7例の中ではこの字例のみです。斜画が1本ですと、[字通]で、死者の衣の上に玉とともに履き物(止)を置く象とする「袁」と同形になってしまいます。余談になりますが、この「者」の字については、秦の始皇帝が丞相李斯に命じて制定した秦篆(小篆)の形が他の多くの字例とは異質の構造を持っている点が気になるところです。解明に益する資料が少ない中で、唯一といってよいと思いますが、北宋時代に発見された秦の文字とされる『詛楚文』(秦の始皇帝が楚王を批判している内容)の「者」が当然ながら最も近く、また楚系の『楚王酓鼎』や『郭店楚簡』にもその系に準じた姿を認めることができますが、資料が少なくなお判然としないのは残念なことです。なお、「袁」を「止」と「玉」と「衣」からなるとする考え方ですが、管見では「止」では左下に伸びる線についての説明が足らず、これは「之」とするべきと考えます。中山諸器の時代に近い『哀成弔(叔)鼎』の字例をあげておきます。

赤井清美著[篆隷大字典]より

○「呉」:祝禱を納める器を掲げて舞う姿です。[字通]を引用すると「」(そく)+口。口は祝禱を収めた器((さい))の形。は人が手をあげて舞う形。片手に祝禱の器をささげて、神前で舞うのは、神を娯(たの)しませる意で、呉は娯・悞の初文とみてよいとあり、また、「」は身を傾けて舞う形。両手をあげ、身を傾けて舞う形は笑。また神を楽しませる所作をいう。そのあでやかな姿を夭・妖(よう)という。呉・笑・妖はみな神前に舞う姿を写す字である。」とあります。今回の字も敢えてやや頭を傾かせています。

○「人」:12回目となります。繰り返しになりますが、この字の縦画は行の中心にもなっています。

戦国中山王圓鼎を習う(100)「毋忘爾邦」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、越を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「毋」:もとは「母」(ぼ・も)と同字です。音は「ぶ・む」で同声系としては「無・亡・忘・妄」などがあり、訓は「なかれ・なし」となります。金文では「母」の字を打ち消しの意で用いることがありますが、後に両乳を直線的にして区別するようになりました。

○「忘」:「亡」が声符。中山三器の円壺には「亡」の人型に分岐する下に横画を加える字形が出てきます。

○「」(爾・尒・尓):音はジ・デイ、訓はうつくしい・なんじ・のみ。
[説文解字]は「窓を飾る格子の美しい様」とするのに対し、[字通]では「人の正面形の上半部と、その胸部に㸚(り)形の文様を加えた形。㸚を独立した字と解すれば会意となるが、全体象形と解してよい字である。㸚はその文身の模様。両乳を中心として加えるもので、爽(そう)・奭(せき)などは女子の文身を示す。爽の上半身の形が爾にあたる。みな爽明・靡麗(びれい)の意のある字である」としています。しかしながら、「爾」の甲骨文や金文などの古い字形を[古文字類編]で確認すると、人体というよりは羽か何かの飾りがついた矢の様に見えます。㸚と関連付けるための「」の形が登場するのは春秋期と考えられる一方で、「爽」は殷代器に見られますので両者を関連づけるのは多少無理があるように思えます。「」は「爾」の上部から取った形です。

○「邦」:8回目です。「丰」(ほう)は草木が盛んに伸びている様。都の外郭の形「囗」(い)の位置は原拓に従って少し左に寄せて書きました。

戦国中山王圓鼎を習う(99)「人其庸々之」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、越を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「人」:11回目です。縦画がそのまま行の中心になります。

○「其」:重文を含めると14回目となります。箕の外枠を左から右へ一筆で書く方法はシンメトリー性を損ないやすいので十分な配慮が必要になります。左右2回に分けて書く方が無難ではあります。

○「庸々」:「庸」の字は3回目です。「庸々」は「凡庸で平凡な人々」をさすこともありますが、「庸」には「用いる」意があり、ここでは「大いに用いる」という意になります。「庸」の字形を見ると下の部分が「用」となっており、それを繰り返して「庸用」とするユニークな発想ですが、これはすでに(86)、(91)の「寡々」を「寡人」としている手法と同じです。なお、「用」の字形に関連したものとして「啇」のように下に構成素が加わるとその下に肥点を入れるのですが、「用・甫・帝」のように単独の場合には肥点を入れないという特徴があります。これは相邦の名である「貯」字の隷定問題の一つの傍証となっています。

○「之」:重文を含めて21回目です。

戦国中山王圓鼎を習う(98)「念之哉後」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、越を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「」(念):「含」と「心」からなります。「含」の声符「今」(きん)は音が変化する転声の範囲が広く、当時、この字は「念」と音が通じていた可能性があると赤塚忠は述べています。また、既に(37)で触れていますが、中山三器では「含」を「今」の意で用いることがあります。なお、「今」の右斜画を長くするのは戦国期の諸器および簡帛に見られる特徴の一つです。中山篆を創出した民祖がその嚆矢ということもあるかも、と妄想が湧きます。

○「之」:20回目(重文を含めて)です。

○「」(哉):5回目です。拙臨の場合は最初に「才」を書いています。

○「後」:一般的な「後」については、[字通]に「彳(てき)+幺(よう)+夊(すい)。〔説文〕二下に「遲きなり」と訓し、〔段注〕に幺は幼少、小足のゆえに歩行におくれる意とする」とあります。糸を捻った「幺」は「御」の甲骨文にも出てくるものでそれは金文では呪具の「午」(きね)に替わることから、同様に呪具であると考えられます。今回のこの字例を見ると、祝禱の器「」(さい)が入っていて、「辵(ちゃく)+幺+各」または「「彳+幺+夊+(さい)」という構成です。「」を付け加える構成としては先の「念」「覆」「退」と同様です。「各」は祝詞を奏して神霊が降格する意であることから、「後」は進退に関連した呪儀を示すものと白川静は説いています。