戦国中山王圓鼎を習う(100)「毋忘爾邦」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、越を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「毋」:もとは「母」(ぼ・も)と同字です。音は「ぶ・む」で同声系としては「無・亡・忘・妄」などがあり、訓は「なかれ・なし」となります。金文では「母」の字を打ち消しの意で用いることがありますが、後に両乳を直線的にして区別するようになりました。

○「忘」:「亡」が声符。中山三器の円壺には「亡」の人型に分岐する下に横画を加える字形が出てきます。

○「」(爾・尒・尓):音はジ・デイ、訓はうつくしい・なんじ・のみ。
[説文解字]は「窓を飾る格子の美しい様」とするのに対し、[字通]では「人の正面形の上半部と、その胸部に㸚(り)形の文様を加えた形。㸚を独立した字と解すれば会意となるが、全体象形と解してよい字である。㸚はその文身の模様。両乳を中心として加えるもので、爽(そう)・奭(せき)などは女子の文身を示す。爽の上半身の形が爾にあたる。みな爽明・靡麗(びれい)の意のある字である」としています。しかしながら、「爾」の甲骨文や金文などの古い字形を[古文字類編]で確認すると、人体というよりは羽か何かの飾りがついた矢の様に見えます。㸚と関連付けるための「」の形が登場するのは春秋期と考えられる一方で、「爽」は殷代器に見られますので両者を関連づけるのは多少無理があるように思えます。「」は「爾」の上部から取った形です。

○「邦」:8回目です。「丰」(ほう)は草木が盛んに伸びている様。都の外郭の形「囗」(い)の位置は原拓に従って少し左に寄せて書きました。

戦国中山王圓鼎を習う(99)「人其庸々之」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、越を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「人」:11回目です。縦画がそのまま行の中心になります。

○「其」:重文を含めると14回目となります。箕の外枠を左から右へ一筆で書く方法はシンメトリー性を損ないやすいので十分な配慮が必要になります。左右2回に分けて書く方が無難ではあります。

○「庸々」:「庸」の字は3回目です。「庸々」は「凡庸で平凡な人々」をさすこともありますが、「庸」には「用いる」意があり、ここでは「大いに用いる」という意になります。「庸」の字形を見ると下の部分が「用」となっており、それを繰り返して「庸用」とするユニークな発想ですが、これはすでに(86)、(91)の「寡々」を「寡人」としている手法と同じです。なお、「用」の字形に関連したものとして「啇」のように下に構成素が加わるとその下に肥点を入れるのですが、「用・甫・帝」のように単独の場合には肥点を入れないという特徴があります。これは相邦の名である「貯」字の隷定問題の一つの傍証となっています。

○「之」:重文を含めて21回目です。

戦国中山王圓鼎を習う(98)「念之哉後」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、越を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「」(念):「含」と「心」からなります。「含」の声符「今」(きん)は音が変化する転声の範囲が広く、当時、この字は「念」と音が通じていた可能性があると赤塚忠は述べています。また、既に(37)で触れていますが、中山三器では「含」を「今」の意で用いることがあります。なお、「今」の右斜画を長くするのは戦国期の諸器および簡帛に見られる特徴の一つです。中山篆を創出した民祖がその嚆矢ということもあるかも、と妄想が湧きます。

○「之」:20回目(重文を含めて)です。

○「」(哉):5回目です。拙臨の場合は最初に「才」を書いています。

○「後」:一般的な「後」については、[字通]に「彳(てき)+幺(よう)+夊(すい)。〔説文〕二下に「遲きなり」と訓し、〔段注〕に幺は幼少、小足のゆえに歩行におくれる意とする」とあります。糸を捻った「幺」は「御」の甲骨文にも出てくるものでそれは金文では呪具の「午」(きね)に替わることから、同様に呪具であると考えられます。今回のこの字例を見ると、祝禱の器「」(さい)が入っていて、「辵(ちゃく)+幺+各」または「「彳+幺+夊+(さい)」という構成です。「」を付け加える構成としては先の「念」「覆」「退」と同様です。「各」は祝詞を奏して神霊が降格する意であることから、「後」は進退に関連した呪儀を示すものと白川静は説いています。

 

戦国中山王圓鼎を習う(97)「宜也於乎」

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年覆呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而驕。毋衆而囂。吝邦難。仇人才彷。於虖念之哉。子々孫々永定保之、毋替厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの(義)を知るなり於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、越を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちて之を併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ。吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を定保し、厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ。

○「宜」(義):3回目です。[説文解字]に「安んずる所なり。宀(べん)の下、一の上に從ふ。多の省聲なり」とあり、[字通]には「まな板(且)の上に多肉を置く形で廟屋をあらわす宀(べん)に従うのは後のこと」とあります。しかし、甲骨文や金文を通観すると、まな板というよりは祭肉の大きな塊か、層構造になった供物収納のための祭器のようにも見えます。一方、まな板の訓を持つ「俎」(そ)について、[字通]では「両肉片+且(そ)」としてはいるのですが、西周金文は「刀」と層構造に切り分けた際の境目を示すかのようなものが反対側に添えられる形で、それはどう見ても肉片には思えません。仮に、乾した薄肉からなる「昔」の異体字「㫺」と「俎」の偏との共通をあげるとしても、「俎」が「」の形を具するのはずっと後、戦国期になってからのことですから字源の説解には無理があります。また、この「宜」ですが、原初から西周に至るまで「宀」を伴うものはありません。そして戦国期以降になりますと、肉(夕または月)が2つではなく一つになるパターンが出てきます。中山王三器では円壺銘にそれを認めることができます。その系譜は現在の「宜」の活字形に繋がると思われ、「宜」の中の「且」は実は肉(月)が変化したものではないかと推測できるのです。その考え方で隷定すると「」とでもなるでしょうか。なお、臨書する際は、上下2つの「月」内の線の方向に微妙な変化があることを見逃さないようにしてください。

[古文字類編]且と俎
[古文字類編]宜

 

○「施」(也):4回目。旗をあらわす「」(えん)の内部は「冉」ではなく「它」の変化したものであることは既に述べたところです。上下2つの縦画の位置を若干ずらして構成させます。

○「於」:9回目となります。本来は烏の死骸を人が架けている姿で、活字への隷定は「」とでもすべきかもしれません。尾長鶏のような長く美しい尾がポイントです。

○「虖」(乎):6回目です。「虖」はほえる意ですが、音通により「乎」として用いています。「乎」は神事の際に音を鳴らす祭器で、遊舌のある鳴子板です。虎頭が入るものの中には、虎頭を被って軍神を祀るなど神事に関係があるものも含まれています。渦紋は装飾的表現です。なお、「虖」の他例では渦紋を結ぶ横画がありますが、ここでは接写画像を確認しても入っていません。それはまるで「參」が渦紋を結んでいないことに影響を受けているかのようです。

 

戦国中山王圓鼎を習う(96)「爲人臣之」

《氏以賜之厥命。隹又死辠、及參世、亡不若。以明其悳、庸其工。老貯奔走命。寡人懼其忽然不可得、憚々業々、恐隕社稷之光。氏以寡人許之。又工智施。詒死辠之又若、智爲人臣之宜施。》

《是れを以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。死罪有りと雖も、參世に及ぶまで、若(ゆる)さざる亡し。以て其の徳を明らかにし、其の工(功)を庸とす。吾(わ)が老貯、奔走して命を聽かず。寡人、其の忽然として得べからざるを懼れ、憚々業々として、社稷の光を隕(おと)さんことを恐る。是を以て、寡人之を許せり。謀慮皆従ひ、克く工(功)有るは智なり。死罪の若(ゆる)さるる有るを詒(おく)り、人臣爲るの宜(義)を知るなり。》

○「爲」:3回目です。象を操って作業する形から、事を為す意になります。上の部分が手、左に垂れているのが長い鼻です。中山王諸器の兆域図に簡略体が出てきます。

○「人」:10回目です。他の字例と比べると左下に伸びる腕が若干長いようにみえます。

○「臣」:4回目です。この造形を見る度にオーム貝の美しい対数螺旋が目に浮かんできます。

オーム貝

○「之」:18回目です。中山王諸器の中で最も多く出てくる字で、円鼎・方壺・円壺の三器だけでも重文を含めると46例ありますが、その内、円壺での6例中3例が右上から左下に伸びる線が中央の線を貫く形になっています。器ごとに字形表現上の違いがあることを示す事例の一つです。

『中山王□器文字編』(張守中編)「之」

 

戦国中山王圓鼎を習う(95)「之有若智」

《氏以賜之厥命。隹又死辠、及參世、亡不若。以明其悳、庸其工。老貯奔走命。寡人懼其忽然不可得、憚々業々、恐隕社稷之光。氏以寡人許之。又工智施。詒死辠之又若、智爲人臣之宜施。》

《是れを以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。死罪有りと雖も、參世に及ぶまで、若(ゆる)さざる亡し。以て其の徳を明らかにし、其の工(功)を庸とす。吾(わ)が老貯、奔走して命を聽かず。寡人、其の忽然として得べからざるを懼れ、憚々業々として、社稷の光を隕(おと)さんことを恐る。是を以て、寡人之を許せり。謀慮皆従ひ、克く工(功)有るは智なり。死罪若(ゆる)さるる有るを詒(おく)り、人臣爲るの宜(義)を知るなり。》

○「之」:17回目です。左の2画、付かず離れず一体に書くのはとても難しく、三水の運筆に通じるものがあります。

○「有」:5回目。拓によって脚の方向が微妙に異なっている様にみえるかもしれません。ここに掲げた図は『戦国中山三器銘文図像』に拠って臨書したものです。

○「若」:3回目です。「ゆるす」意です。[字通]には「巫女が両手をあげて舞い、神託を受けようとしてエクスタシーの状態にあることを示す。艸はふりかざしている両手の形。口は(さい)、祝祷を収める器。」とあります。中山篆は本来の頭(頭髪)と両手の部分の形が随分変形しています。あるいは確信的に装飾的表現にしたのかもしれません。なお、容庚編『金文編』では自説を添えて「若」に草を手中する形「芻」(すう)を充てていますが、その自説に配慮してか、巫女が髪を振り乱している豊富な字例を封殺し反映させていません。しかし、「匿」の項ではその字形を「若」として是認しています。これは、後出(後漢)の説文解字を金科玉条とした陥穽(落とし穴)といえそうです。※〔説文〕一下「菜を擇(えら)ぶなり。艸右に從ふ。右は手なり」

「若」 古文字類編と金文編

○「(智)」(知):6回目です。ここでは「知」(しる)意でもちいています。現在の活字形では「干」が省略されていますが、甲骨文では「矢・子・」の構成だったり、戦国期金文では「矢・干・曰」という構成が多かったりしているのがわかります。なお、「矢」の肥点については前回(93)で触れていますが、先ほどの『金文編』には中山三器方壺に字例に肥点が入っています。しかしこれは誤りで、中山三器銘文の「智」にはいずれも肥点を入れません。戦国同期の魚顚匕(魚鼎匕)(※匕は匙(さじ))は中山篆にとても似ているので比較するための図を添えておきます。

「智」 魚顚匙との比較  古文字類編に魚顚匙の図を加えたもの  吳鎮烽:“魚鼎匕”新釋より引用

 

 

戦国中山王圓鼎を習う(94)「也詒死罪」

《氏以賜之厥命。隹又死辠、及參世、亡不若。以明其悳、庸其工。老貯奔走命。寡人懼其忽然不可得、憚々業々、恐隕社稷之光。氏以寡人許之。又工智。詒死辠之又若、智爲人臣之宜施。》

《是れを以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。死罪有りと雖も、參世に及ぶまで、若(ゆる)さざる亡し。以て其の徳を明らかにし、其の工(功)を庸とす。吾(わ)が老貯、奔走して命を聽かず。寡人、其の忽然として得べからざるを懼れ、憚々業々として、社稷の光を隕(おと)さんことを恐る。是を以て、寡人之を許せり。謀慮皆従ひ、克く工(功)有るは智なり。死罪の若(ゆる)さるる有るを詒(おく)り、人臣爲るの宜(義)を知るなり。》

○「施」(也):3回目。この字は李学勤が比定した「旃」(せん)を白川静(1910~2006)も承け、赤塚忠(1913~1983)は「□」(えん)とする一方で、朱徳熙(1920~1992)、裘錫圭(1935~)、張守中、小南一郎(1942~)らは「施」としています。「旃」を構成する丹に似たものはもと「冉」(ぜん)で、その古い字例にこの形に関連するものは見いだせません。張守中がいうように、これは「它」(た・だ)の変形したもので、楚簡にその原型らしきものが認められます。ただ、中山三器の方壺には「陀」字があって、その形は「它」本来の形が保たれており、円壺の「施」の「它」とする考えに抗うようにもとれます。しかし、別器でもあり、なお中山篆の鷹揚な造字感覚を以てしてあり得ることではあります。ちなみに、『金文編』は朱裘両氏の説を付けながらも、不明な字として巻末にまとめています。

○「詒」:音は「たい」、義はここでは「おくる」です。「台」は耜(すき)「ム」(し)と祝禱を納める器「」(さい)からなり、呪具を用いて何かを神に伝えることで、そこから「おくる」意が生まれます。相邦である貯の功績や明智に対し、三代に亘って死罪を免除するという特権を贈ることを述べているところとなります。「台」の「ム」の終画を左上に引いている拓がありますが、この部分は器面が銹(さび)や腐蝕によって傷ついており、鮮明でないところを塡墨して筆画を作っていると思われ、やはり他の字例の通り左下に向かって終わるべきです。

○「死」:2回目です。残骨の形である「歺」(歹 がつ)とそれを弔う人からなる字です。「死」には異体字がいくつも存在していますが、中山篆研究の第一人者である張守中氏は著書『中山王器文字編』の中で、兆域図にある下の字を「死」として編入しています。これは説文古文との関連があるもので活字では「」と表記されているものの系統と思われます。また、この字形は「夢」の甲骨文に床形とともに含まれる、眉飾か角がある人形(ひとがた)を想起させます。これを夢魔を祓う巫女とする説があるのですが、この「死」の異体字をみると、夢魔そのものとも思えてきます。

張守中編『中山王□器文字編』「死」より
「死」説文古文

○「辠」(罪):「自」と「辛」とからなる字。鼻に入れ墨を施す刑罰をさす字です。[説文解字]には「罪」と「辠」、異なる構造による2つの小篆があげられています。「辛」には肥点が入ります。この肥点はかなり小さめなので拓影にはっきりと出ない場合がありますので注意が必要です。

 

 

戦国中山王圓鼎を習う(93)「克有工智」

《氏以賜之厥命。隹又死辠、及參世、亡不若。以明其悳、庸其工。老貯奔走命。寡人懼其忽然不可得、憚々業々、恐隕社稷之光。氏以寡人許之。又工智旃。詒死辠之又若、智爲人臣之宜旃。》

《是れを以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。死罪有りと雖も、參世に及ぶまで、若(ゆる)さざる亡し。以て其の徳を明らかにし、其の工(功)を庸とす。吾(わ)が老貯、奔走して命を聽かず。寡人、其の忽然として得べからざるを懼れ、憚々業々として、社稷の光を隕(おと)さんことを恐る。是を以て、寡人之を許せり。謀慮皆従ひ克く工(功)有るは智なり。死罪の若(ゆる)さるる有るを詒(おく)り、人臣爲るの宜(義)を知るなり。》

○「」(克):5回目です。ここではことをなす・よくする・かちとる・うちたてるなどの意です。多くの字書では「克」をひとあしの部首に加えていますが、人体とは関係がありません。「克」はおそらく木を彫ったり削ったりするための刀で、上が取っ手で下が刃身です。この字「」はその曲刀「克」を手で持つ構造にしたものといえます。[古文字類篇]を参照すると、甲骨文の字形には、刀身の部分が人の脚を含む首から下をあらわしているものがあります。一方、幼児をあらわす「兒」(児)や顔(あご)に髭が生えている形の「須」には逆に脚を含む首から下の部分が「克」の刀身のようになっているものも見いだすことができます。

○「有」:4回目です。右手「又」(ゆう)に渦紋を添えています。同音である「又」を「有」として用いることは金文で多くみられます。この渦紋は肉づき「月」の省略形ではなく、中山国篆特有の装飾的表現です。ところで、中山王諸器の兆域図には「寸」を[又」の意で用いる例があります。現在、活字体に「寸」が含まれる字はたくさんありますが、例えば「壽・尊・尋・對・導・射・尃」などの西周以前の字形は「寸」ではなく「又」となっています。「寸」を含む字例を渉猟すると、「寺」の場合は中山篆同様に戦国期になって「寸」の姿が現れ始めますが、多くの場合、「又」が「寸」に変化するのは、漢簡などの資料に初見されますので、漢時代近くになってからのことだということがわかります。必然的に、それらは後漢に編纂された[説文解字]に反映されていくことになりました。小篆の字形が原初の字源に基づいているわけではないといわれるのはそのためもあります。

○「工」(功):2回目です。功労や功績、それに携わる者、あるいはそのもとになる才能といった意を持ちます。「工」は祭事の際に巫女が左手に持つ呪具の場合と鍛冶の工具台の2通りの場合がありますが、この「工」は鍛冶の作業を経て生産されたもの、その功労、功績といった意味に通じ、今の「功」をあてて解釈します。実はこの「功」は後になってできた字で古い字例がありません。金文では例えば「成功」(功労・功績を成す)を「成工」、「有功」(功績があること)を「又工」と表記していました。下に、「成工」が出てくる《也簋》(沈子也簋)(いき・西周康王期)の拓影とともに拙臨を紹介させていただきました。

[古文字類編]工

 

《也簋》拙臨

○「智」:5回目です。「智」はさといこと。相邦(家臣の長)である「貯」が功を立てることができたのは明智あるがゆえであると述べているところです。構成素で楯をあらわす「干」(かん)の脚先を「矢」の脚先に揃えずに少し上げることで動きを生んでいます。なお、その「矢」の字形は、金文の通例では鏃の下に肥点がつきますし、中山三器の《方壺》の「侯」の字3例にはしっかり加えているのですが、この7例ある「智」にはどれにも入れていません。これでは「大」と同形になってしまいます。肥点をよく加える中山篆にしては珍しい気がしますし、その理由を探る術が欲しいところです。

 

戦国中山王圓鼎を習う(92)「謀慮皆從」

《氏以賜之厥命。隹又死辠、及參世、亡不若。以明其悳、庸其工。老貯奔走命。寡人懼其忽然不可得、憚々業々、恐隕社稷之光。氏以寡人許之。、克又工智旃。詒死辠之又若、智爲人臣之宜旃。》

《是れを以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。死罪有りと雖も、參世に及ぶまで、若(ゆる)さざる亡し。以て其の徳を明らかにし、其の工(功)を庸とす。吾(わ)が老貯、奔走して命を聽かず。寡人、其の忽然として得べからざるを懼れ、憚々業々として、社稷の光を隕(おと)さんことを恐る。是を以て、寡人之を許せり。謀慮皆従ひ、克く工(功)有るは智なり。死罪の若(ゆる)さるる有るを詒(おく)り、人臣爲るの宜(義)を知るなり。》

○「」(謀):「母」と「心」から構成されています。「母」の音(ぼ・も)と「謀」の音(ぼう・む)は近いため通用していたと思われます。「母」の縦画は最後を「心」の画の間に入れるため、やや左に寄せた位置から書き始めます。

○「」(慮):2回目です。「呂」は青銅器を鋳造するための銅塊が2つ並んだ形で、古い字形には2つを繋ぐ線はありませんでした。「心」がそれらの脇をきゅっと締めるようにして書きます。

○「」(皆):字形の構造は「虍」と「歺」(歹)と「曰」からなっています。活字に隷定する場合は、「虎」と「曰」による構成では不十分だと思います。赤塚忠氏によれば、秦始皇二十六年詔版の残片では、他の詔版が

拙齋蔵拓

の様にしているのに対し

秦始皇二十六年詔版の残片にある「皆」と比定される字

としているとのことです。一般的に公開されている拓や私蔵の拓を確認したところ、すべて標準的なもので、ついにその残片の字例を確認することは適いませんでしたが、甲骨文編にこれと近似した字を認めることができます。しかし、残念ながらこの字についての詳細は不明なままです。

○「」(從):2回目です。「从」の終筆が細く拓にあらわれていない場合がありますが、「止」に接する位置まで伸びています。

戦国中山王圓鼎を習う(91)「以寡人許之」

《氏以賜之厥命。隹又死辠、及參世、亡不若。以明其悳、庸其工。老貯奔走命。寡人懼其忽然不可得、憚々業々、恐隕社稷之光。氏以寡人許之、克又工智旃。詒死辠之又若、智爲人臣之宜旃。》

《是れを以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。死罪有りと雖も、參世に及ぶまで、若(ゆる)さざる亡し。以て其の徳を明らかにし、其の工(功)を庸とす。吾(わ)が老貯、奔走して命を聽かず。寡人、其の忽然として得べからざるを懼れ、憚々業々として、社稷の光を隕(おと)さんことを恐る。是を以て、寡人之を許せり。謀慮皆従ひ、克く工(功)有るは智なり。死罪の若(ゆる)さるる有るを詒(おく)り、人臣爲るの宜(義)を知るなり。》

○「以」:8回目です。上部右に膨らんだ位置と書き終える最後の位置が概ね揃うようにしてまとめます。

○「頁々」(寡人):「寡人」とは「わたし」という意。王侯が自称するときの語で、この銘文を起草した中山王のことを指しています。(77)までは「寡人」と2字刻していたのに、(86)から「寡」に重文のように踊り字(二の字点)をつけて「寡人」と読ませています。原字「頁」の字形は首から上の頭部を強調したものですが、その頭を除いた部分はまた「人」の字形と見えなくもありません。そのため、その「人」を繰り返せばよいと考えたのでしょう。中山国人の柔軟な思考力に感心させられます。これに似た例は他にも中山三器の方壺に「夫」字の右脇に二の字点をつけ、「大夫」と読ませるものなどがあります。なお、赤塚忠の当該研究は大変優れたもので、裨益するところ極めて大きいのですが、解読に用いた拓は質が良くありませんでした。そのためにいくつか誤った解釈がみられます。ここでも二の字点が拓に写し取れていないために解読に行き詰まり、銘の不備との言及をしているのです。まさか踊り字によって、「寡」の「人」に見えなくもない下部を繰り返させて「寡人」と読ませるとは。赤塚氏も想像だにしなかったに違いありません。また、このことは金石研究には良質の資料が欠かせないということを示しています。下の部分は最後の長脚が中心から離れないよう、やや左に寄せて書きます。

○「許」:声符で杵の形である「午」には(ご・ぎょ)の音があります。「許」とは呪器としての杵を祀ることで神から示される許諾をいいます。言偏の▽部を小さく、肥点は高さ中央付近に配します。

○「之」:16回目です。