「夏虫疑氷」 『荘子』(秋水篇)より

「夏虫疑氷」(かちゅうぎひょう)を漢印風泥調に刻したものです。

この句の意味は、「夏の虫は氷というものを知らないので、その存在を疑う」となります。見聞が狭いこと、見聞の狭い人は広い世界を理解しえないこと、見識の狭い人が自分の知らないことを信じようとしないことのたとえとなります。

出典となる『荘子』の秋水篇には、「井蛙不可以語於海者、拘於虚也。夏蟲不可以語於氷者、篤於時也」(井蛙(せいあ)は以て海を語るべからざるは、虚に拘ればなり。夏蟲は以て氷を語るべからざるは、時に篤ければなり)とあります。意味は「井戸の中の蛙が海のことを語れないのは、穴の中の世界にこだわっているからであり、夏の虫が氷のことを語れないのは、自分が生存する時節にとらわれているからである」となるでしょうか。この件(くだり)からは「井蛙之見」、「井底の蛙大海を知らず」などの類語もよく知られています。

ちなみに中国は広大な国土を有するがゆえに、遠方の地については未知であり、時に未開の地として見下す傾向もあります。関連する次の二句も記しておきます。

「遼東之豕」(りょうとうのし)『後漢書』(朱浮伝)「往時遼東有豕、生子白頭、異而献之。行至河東見群豕皆白、懐慙而還。若以子之功論於朝廷、則為遼東豕也」

「夜郎自大」(やろうじだい)(『史記』(西南夷伝)「滇王與漢使者言曰 漢孰與我大 及夜郎侯亦然 以道不通故各自以為一州主 不知漢廣大」※夜郎は漢武帝の勢力が及ばずその大きさを知らなかった小国。自大は自らを大なりとすること。

「夏」の字形は、白川静先生によれば「舞冠を被り、儀容を整えて廟前にて舞う人の形」とあります。本来は祭祀儀礼に舞う姿であって、中国や季節の名として使われるのは春秋期からなのだそうです。

夏虫疑氷
55㎜×55㎜

 

習作「刻龍鐫鳳」 (明 甘暘『印章集説』)

「刻龍鐫鳳」は古色や奇抜な刀法に頼らず素直な表現を心掛けた習作です。

明の甘暘(かんよう)は秦漢の古印の蒐集家であり、『集古印正』(印譜)、『印章集説』などで知られる篆刻家。「刻龍鐫鳳」はその『印章集説』から取りました。

古銅印譜『集古印正』は、実業家横田実氏が蒐集した膨大な古銅印譜コレクションを、氏の没後に故小林斗盦先生が整理した上で東京国立博物館に寄贈したものの中の一つで、特に価値のあるものと聞いています。この『集古印正』はもともとは明治時代の官僚であり政治家であった郷純造(齋号:松石山房)の所蔵であったものですが、日本印章学の基礎を築いた明治の篆刻家中井敬所は、他には三井聴氷閣(現 三井記念美術館)に1本あるのみであるといっているほどの希少なものです。なお、東京国立博物館のホームページには『集古印譜』となっています。甘暘の『集古印正』は題箋、序首、自序を『集古印正』としながら、書柱、凡例、各巻冒頭部は『集古印譜』としています。ただ、『集古印譜』というと所謂一般名詞であって、原鈐本の現存する最古のものとして知られる顧従徳(明の収蔵家)の『集古印譜』范大澈(同じく明の収蔵家)のものがあり、『甘氏集古印譜』と区別して称することがあるようです。

閑話休題。「刻龍鐫鳳」は『印章集説』の「印之所貴者文,文之不正,雖刻龍鐫鳳,無為貴奇。時之作者,不究心於篆而工意於刀,惑也。」から取ったもの。

鳳は説文に凡に従うものに並べて、朋に従う字形も載せています。白川静先生によれば「鳳(biuAm)、鵬(bAng)は声近く、卜文の字形によって考えると、もと同源の字である」とのこと。朋の持つベクトルと、他の3字のものとを勘案し、ここではこの朋を鳳として刻すこととしました。

この句が意味するところは、「龍を刻し鳳を鐫(きざ)む。篆刻の刻線は、龍鳳大空を舞うが如く生動にして気を放つものでなければいけない」と解釈。ただ、その気はひけらかすものではなく、静かな沈潜から醸し出すものでなければいけないのだろう、と思います。

刻龍鐫鳳
55㎜×55㎜
《甘氏集古印正》巻首 [東京国立博物館蔵]  画像は文化遺産オンラインより

 

「齊紫敗素」 (戦国策・燕策)

今回は「斉紫敗素」。「戦国時代」の由来となった《戦国策》の燕策に出てくる句です。斉は戦国時代の東方にあり、「戦国七雄」の一つとして、西周に起こり秦によって最後に滅ぼされるまでの間、強勢を誇った国です。斉の名産品として知られた紫の絹も、もともとは白い古絹を紫に染めただけのもので、ちょっと智慧を働かせれば禍を福に変えることができるということを例えた句です。

「紫」は紫色に染める際に「茈(し)」という植物の根を用いるところから、その音符の「此」と「糸」を組み合わせたもの。「斉(齊)」は祭祀に奉仕する女性が髪につける三本の簪(かんざし)。「敗」は宝貝を打って傷をつけ価値を損ねる行為、「素」は糸を両手で絞り染めようとする様で、上部の糸を束ねて絞っている部分だけは染められずに白く残ることから「しろい・しろぎぬ・(染める前の)もと」などの意があります。なお、説文解字では、素を「白の緻(きめこま)かき絹なり。糸と垂とに從ふ。其の澤あるを取るなり」としている点について、白川静先生はその過ちを正しています。

「素」の関連字を金文編から抜粋しておきました。創作にあたっては「素」だけを調べるのではなく、関連した部首を含む他の字にあたることが肝要かと思います。それは字形の変化に許される範囲をつかむためです。

斉紫敗素
58㎜×59㎜
金文編「素」関連字

 

 

「逍遙文字遊」

先に投稿した「解文字飲」に因んで、今回は「逍遙文字遊」。

「文字飲」と共に作品にしてみたいと考えていたのが「逍遙」。深遠な金石の世界に遊ぶ様は自在でありたいと思うけれども、恐らくは迷昧なるが故に翻弄されるのがおち。しかしそれがまた楽しいとも思う。《楚辞、離騒》には「遠く集(いた)らんと欲するも、止(とど)まる所無し 聊(しばら)く浮遊して以て逍遙せん。」とあります。「浮遊逍遙」を印文に、之繞(しんにょう)が多重する難題への解答への挑戦も一考したけれど、最終的には、「逍遙文字遊」に落ち着いて取り組んだものです。恥ずかしながら側款も添えました。側款については自分の怠慢によって、先師からご指導をいただくことを佚してしまい、後悔は尽きません。気に入っていた趙之琛(次閑)の模刻を自己流でかじった程度のものです。周囲諸氏の造像記風の見事な刻風に刺激をうけていたのは確かなのですが、自分にはどうしても作為的な匂いを感じてしまって距離を縮めることはできませんでした。それも非力なるがゆえのこと。聊以解嘲。

逍遙文字遊
59㎜×49㎜

書譜より「古不乖時 今不同弊」

孫過程の書譜から「古不乖時 今不同弊」を刻した拙作です。

彼が遺したこの草書による書論は、全文369行3727字が約9メートルの巻子本に仕立てられたもの。深識に裏打ちされた論旨もさることながら、その優れた書格は名品との声を欲しいままにしています。それだけに、生卒官名などが詳らかでないうえ、書譜以外に伝わる著述もない孫過程が神格化されていくのは無理からぬことだと思います。

かつて高校の書道の授業で「書譜」を指導した際には、二玄社から1979年10月に発行された複製を拙宅から持ち込んで教材にしていました。おもむろに教室に広げるた巻子は前後の黒板に接するほどの威容があり、生徒達から上がる感嘆の声は、授業導入の定石ともいうものでした。

今回は、その「書譜」にある、私の好きな句「古不乖時 今不同弊」(古にして時にそむかず、今にして弊を同じうせず)です。

二玄社刊複製書譜

「古不乖時今不同弊」
35㎜×35㎜

拙作「聽雪」 自作の詩とともに 

書の作品で詩をモチーフにするとき、日本の詩でも漢詩でも、通常名の知れた詩人のものを選ぶことがほとんどと言ってよいと思います。おそらくそれは日本、中国、台湾いずれの国においても同様でしょう。ただそこには著作権という問題があって物故、存命にかかわりなく詩作者への配慮を必要とするばかりでなく、厳密に言えば、詩懐の解釈と作者の意識との間に生じる齟齬という問題も生じます。

「自作の詩を自運の書によって表現する」

それが理想とわかっておきながら、つい「唐詩選」の頁をめくる自分がいます。

今回は、自作の拙い詩「聴雪」と小篆による小品です。自詠の詩を作品中にいれることは己の非力を悟って断念しました。詩を墨書すると、なんとしても「俗」という桎梏から抜け出せないのです。

「聴雪」
拙詩「聴雪」

「學曹全碑」曹全碑に学ぶ   臨書と篆刻2顆

後漢の《曹全碑》は隷書の古典の中でも八分隷の典型として知られ、隷法を学ぶ上では必須のものといえます。ただ、隷法の基本である逆筆や転折などの用筆に難があったり、線質が緩い点などがあって、個人的には《乙瑛碑》、《礼器碑》、《張遷碑》などの方が品格が高いと思っています。とは言え、やはりその美しい姿態には惹かれるところがありますね。今回は碑文の中から、2句を選び刻しました。今回投稿したのは、それを含む部分の臨書と並べて作品にしたものです。書刻同源。書と印を組み合わせた作品表現はここ10年来、模索しながら取り組んでいるものです。

「先意承志」(鑿印風)何も言わずして意を察し、その望むところを為すこと

「易世載徳」(中山国篆)代々に渉(わた)って徳を承け継ぐこと

臨書部1
臨書部2
先意承志
44㎜×44㎜
易世載徳
79㎜×49㎜

「解文字飲」  韓愈「酔贈張秘書」より 

《酔贈張秘書》は中国唐代中期を代表する士大夫韓愈(768~824)の詩。張秘書に招かれた酒宴の席で、自身の詩人としての興懐を詠んだものです。

その中の「不解文字飲」は堕落頽廃した長安の富貴族を批判した部分。「文字飲」は「琴棋詩酒」とある様に風流を語り酒を酌み交わすことで、篆刻を嗜む者にとってはまさに掲額の語。この三字を刻した近年のものとしては、故河野隆氏の作品を思い浮かべるかもしれませんね。シンメトリックな上、疎画である「文字」は表現上の変化に苦心を強いられますし、「飲」との配置構成も難しい課題です。このような条件下では、ややもすると根拠のないデフォルメや刻線に奇抜な媚飾を加えて処理をしがち。各々の文字が本来持つ美しい貌を発揮させれば良いと考えるけれども、そう簡単にはいかないと痛感します。拙作は詩文中の「不」を取って「解文字飲」としたものです。フォルムは甲骨に求め、繁画で多彩なベクトルを有す「解」と「飲」を左右に配し、両脇から支え互いに照応するすることで中央の「文字」を活性化させる構図としました。

長安眾富兒,盤饌羅膻葷,不解文字飲,惟能醉紅裙。雖得一餉樂,有如聚飛蚊。今我及數子,固無蕕與薰。
長安の眾富兒(富貴の者たち)、盤饌(ばんせん:皿に盛られた食べ物)膻葷(せんぐん:生臭い肉や菜)を羅べぬ。文字の飲を解さず、惟だ能く紅裙に醉う。一餉(いっしょう:食事をするくらいの短い間)の樂みを得ると雖も、聚飛の蚊の如く有る。今、我及び數子、固より蕕(ゆう:悪臭を放つ雁金草)と薰(くん:かおり草)無し。

解文字飲
59㎜×59㎜

春秋晩期「者■(三水+刀)鐘」を学ぶ  臨書および篆刻3顆 (3)

前回少し触れましたが、13器現存するこの編鐘には92字(重文1を含むと93)の銘文が、15字から25字までが12器、42字のものが1器に分鋳されています。もっとも多いものが他の器から突出していることは、もともとはこの編鐘にまだ別の器があったのではないかということを想像させます。

この春秋晩期(戦国早期とも)越の「者とう(三水+刀)鐘」(※「とう」は異説あり)を収録しているものとしては、羅振玉の『三代吉金文存』、馬承源の主編による『商周青銅器銘文選』、中華書局発行の『殷周金文集成(修訂増補本)』などが拙齋にあります。それらの中では、やはり現存する13器をすべて網羅していること、各器について字数や個人蔵の名前を明らかにしている点など詳細情報を具している点に於いて、『殷周金文集成(修訂増補本)』に勝るものはありません。『三代吉金文存』には4器、わずか2器載せるのみの『商周青銅器銘文選』などは全数を12器としています。なお、『殷周金文集成(修訂増補本)』には「者とう(三水+刀)鐘」とは別に同系の「者とう鎛」が1器収載されていて字形表現上の揺らぎを確認することができます。

金石資料をもとに作品制作する場合は、同字について少なくとも数例にわたって表現上の揺らぎの幅を確認し、俗に墜ちないよう、かつより完成美に近い姿を求め、その許容範囲において意匠を膨らますことが大切だと考えています。

殷周金文集成
「そん(孫+心)學」 学にしたがう
55㎜×55㎜

春秋晩期「者■(三水+刀)鐘」を学ぶ  臨書および篆刻3顆 (2)

「者■(三水+刀)鐘」は13器の現存が確認されていますが、京都泉屋博古館が所蔵する2器のうちの一つは、陳介祺の十鐘山房蔵鐘の一つだそうです。なお、「者とう鐘」の銘文は全部で92字という難解な長文で、それらを器の大小入り混じる編鐘に分刻するのに例えば4器ほどを要しています。しかし、全てについてどれとどれをセットにしているかについては未だ解明には至らず、どうやら、編鐘の構成は13鐘にとどまらないかも知れません。しかも、字形の解釈に関しても未解明のものが幾つも存在します。そのあたり、「者とう鐘」の研究については「泉屋博古館紀要 第5巻」淺原達郎先生の論攷「者とう鐘」に詳しいので、興味がある方は是非問い合わせると良いと思います。

今回取り上げるのは、春秋晩期「者■(三水+刀)鐘」の銘文から選んだ3作品のうち2顆。「虔秉丕経徳」(つつしみて、ひけいのとくをとる)を2つに分けて刻したものです。

① 「虔」(ケン・つつしむ)

② 「秉丕経徳」(丕経の徳を秉る)※丕経は大いなる徳

「虔秉丕経(徳)」   京都泉屋博古館蔵 『楽器』(泉屋博古館発行)より転載
「虔」(つつしむ)
「秉丕経徳」(丕経の徳を秉る)※丕経は大いなる徳
虔(つつしむ)
虔(つつしむ)
25㎜×12㎜
秉丕経徳(丕経の徳を秉る)※丕経は大いなる徳
74㎜×50㎜