戦国中山王方壺を習う(77)

(顧)逆(順)(故)   逆順を顧み(ず)。故に

」(顧):2回目です。この字形は中山諸器中、方壺にのみ2例出てきます。

「逆」:2回目です。旁の上部は人が向こうから手前にやってくる様を倒形にしたものですから肥点は本来不要で他の金文には見られない中山篆独特の表現です。これも方壺にのみ3例登場します。

」(順):4回目です。「川・心」に従う字形で、川の流れのように沿う心情を指します。

」(故):2回目です。これも「顧・逆」と同様に方壺のみに出てくる字です。方壺の3例いずれもやや字形に整斉性を欠くようです。若干の修正を加えて書いてみました。

戦国中山王方壺を習う(76)

「用(禮)宜(義)不   礼義を用い(ず)、(逆順を顧み)ず。

「用」:2回目です。中山国の相邦(相国に同じ)の名である「貯」の字の上部をこの「用」としている研究者が多いのですが、見ての通り、中山諸器では3例ある「用」にはいずれも肥点を入れていません。両字は似てはいるのですが、「用」は木組みの柵の形、「貯」に含まれる「宁」(チョ)は収蔵するための器です。

」(禮):「豐」と祝禱の器「」(サイ)とからなる字です。おそらく、祭祀に関わることを示す祭卓「示」の代わりに「」を充てた「禮」の異体字と思われます。

「宜」(義):2回目です。

「不」:11回目です。

 

戦国中山王方壺を習う(75)

「君子之不   (新)君の子之と、(禮義を用い)ず、

「君」:4回目です。

「子」:5回目です。

「之」:8回目です。

「不」:10回目です。この字は花の花弁・おしべ・めしべ・花托を支える萼(ガク)の形であるとされています。頭部の一画は甲骨文には見られず、春秋戦国以降になってからその字例が出てきます。中山諸器にも有無2つのパターンがあります。

戦国中山王方壺を習う(74)

「君子徻(噲)新   (故)君の子噲と新(君の)

「君」:3回目です。

「子」:4回目です。

「徻」(噲):2回目です。紀元前316年、第38代の燕王である噲は宰相であった子之に王位を譲ったため国内の反乱を招き荒廃していきました。その機に乗じた斉の宣王によって燕都はあえなく陥落し、先王噲と逃亡した子之は捕らわれて処刑されました。子之の在位は僅か2年で終わることになります。このころ中山国も斉国同様に出兵し、領土を拡げることになります。

「新」:新しい神木を選ぶ際に使う針である「辛」と「木」、そして木を伐るための「斤」からなる字です。伐り取られた木から作られた神位を拝するのが「親」となります。

戦国中山王方壺を習う(73)

「不(順)郾(燕)(故)   不順を(誅す。)  燕の故(君)の子噲と

「不」:9回目です。

」(順):2回目です。

「郾」(燕):5回目です。

」(故):この字は「」(はたがしら)と祝禱の器に「干」(たて)をのせた形「古」とからなる字ですが、音通によって「故」の意で用いています。故君とは先君のことです。

戦国中山王方壺を習う(72)

「幸(甲)冑ム(以)(誅)   甲冑を(蒙り)、以て(不順を)誅す。

「幸」(甲):受刑者に処する手かせの形です。音通によって「甲」の意となります。中山諸器では唯一の字例です。

「冑」:頭に被る飾りがついた兜(かぶと)の形。西周金文には兜の下に目がつく形があります。もともとは「皇」の上部にある玉飾りと同じ形と頭に被る様を表す「」(ボウ)とからなる字であって、下は「月」ではありません。ただ、音であるチュウとの関係は不詳です。「甲冑を蒙る」とは自ら戦に臨むことを指しますが、この表現はこの戦乱に明け暮れた春秋時代の歴史書である『国語』晋語六にもみられます。

「ム」(以):12回目です。

」(誅):木を用いて水銀を薫蒸抽出する様とされる「朱」が声符、「戈」(ほこ)とからなる字で、「誅」に相当します。これも中山諸器で唯一の字例です。燕国を誅伐したことを指しています。

 

戦国中山王方壺を習う(71)

「氏(是)ム(以)身蒙   是を(以て)身ら(甲冑を)蒙り、

「氏」(是):2回目です。

「ム」(以):11回目です。

「身」:2回目です。ここでは「みずから」の意となります。

「蒙」:この「蒙」は中山諸器で唯一の字例で、「おおう・こうむる」意で用いています。この字に関して《字通》は冡(モウ)は〔説文〕七下に「覆(おほ)ふなり」とあり、豕(シ)を覆う形であるとするが、冡の上部に角や耳を加えた形が蒙であるから、冡・蒙は繁簡の字とみてよく、蒙は頭部をも含む獣皮の全体象であると説いていて、冡・蒙はもともと同字であるとしています。なお、この字の中央の「」は「冒」の上部にあたる「」(ボウ・モウ)で、「おおう・かぶる」意を持つもの。これが声符となっています。すぐ後ろに続く「甲冑」の「冑」にも身体に被せた姿として登場します。

 

戦国中山王方壺を習う(70)

「ム(以)請(靖)郾(燕)疆   以て燕との疆を靖んぜんと。

「ム」(以):10回目です。

「請」(靖):声符は「青」で「靖」に通仮して、「やすんずる・しずめる」意となります。この字は中山篆で一例のみです。旁が下がっておりやや佇まいが悪い気がします。

「郾」(燕):4回目です。旁の脚部下は拓影では明瞭ではありませんが、接写画像では長く伸びていることが確認できます。

「疆」:耕作地である田の境界や畦(あぜ)の意がある字で、「畺」(キョウ)が初文です。ここでは中山国と隣国燕との境界のことを指しています。弓は距離を測定し定める際に用いるもの。土地神である「土」を加えた「疆」(キョウ)が正字とされますが、金文ではこの「土」を略す例が多く、「強」の異体字「彊」と紛らわしい関係です。事実、中山諸器でみられる5例は「強」とは異なって「境界・区域・かぎり」の意で用いているものの、「土」を入れたものはこの場合の1例のみで、他はすべて略した字形になっています。

 

戦国中山王方壺を習う(69)

「忨(願)(從)在大夫   願わくは、従いて大夫に在り。

「忨」(願):2回目です。音通によって「願」(ねがう)の意となります。ただ、相国(宰相)であった貯が一介の大夫となって従軍する覚悟を謙虚と捉えれば「つつしむ」意をもつ「愿」に通仮するとの説もあり得ることかと思います。

」(從):「从」(ジュウ)は側身形で左向きの2者を列べて前者に従うさまを表す字です。随行して従う場合もあって「辵」(チャク)が付きますが、すでに西周金文から「彳」(テキ)や「止」のみに省略する例が存在します。ここでは秩序を乱した燕国を撃つために従軍する意となります。

「在」:2回目です。

「大夫」:「夫」に付く繰り返し記号(重文号)の位置が下ではなく、中央にあるのは「夫」の構成素となっている「大」を繰り返すことを示しています。つまり、ここでは「大夫」となり、重文号を用いた合文とするわけです。大夫は君主国家を支える支配階級にある貴族の身分呼称で、相国(宰相)である貯が、将軍ではなく、一介の大夫になったつもりで従軍する意志を表した部分となります。読みとしては「願わくは、大夫に在りて従わん」でもよいのかと思います。

戦国中山王方壺を習う(68)

「忍見施(也)(貯)   見るに忍び(ざる)なり。貯、

「忍」:声符は「刄」(ジン)で、「たえる・しのぶ・ゆるす」などの意を持ち、中山諸器では唯一の字例です。

「見」:行為の主となる部位を強調してその意を表す漢字造字法です。見るといういう行為の主となす目を大きく書くにあたって、中山篆では「目」をこのように書きます。これも中山諸器で唯一の字例です。

「施」(也):3回目です。

」(貯):5回目です。「貝」の上にあるのは「用」ではありません。中山篆では「用」とは無縁の「帝」の字形などにあたかも「用」のように右上に横画を増やす特徴があります。そもそも中山篆ではこの方壺に3度登場する「用」には肥点を入れていません。肥点が入るのは、物を収蔵する器を表す「宁」の字形にみられる特徴で周代青銅器に多見できます。詳しくはホームページの『中山篆書法篆刻学術報告交流会』をご参照下さい。