旧作「遊趙孟頫赤壁賦」臨書と篆刻2顆(3)

今回は「後赤壁賦」を臨書した部分です。

1082年の旧暦七月に「前赤壁賦」を詠んでから三か月後の作。季節は冬に入り、水流が減って、河岸の露わになった岩に荒々しい水流が轟く。この詩には前詩同様に明月と酒が、そして新たに、一斗もの秘蔵の酒を差し出す蘇軾の愛妻や夢に現れた道士まで登場させ、情景の展開に華やかさを加えている。しかし、実は蘇軾は下戸であったとも、また詩の舞台は赤壁とは異なる地であったとも聞いている。これもまた一興というべきか。蘇軾の詩情に趙孟頫の清澄な風韻が重なって、まるで美しい風景画を見るかのようである。

後赤壁賦冒頭部
後赤壁賦1
後赤壁賦2
後赤壁賦3
後赤壁賦4
後赤壁賦5

旧作「遊趙孟頫赤壁賦」臨書と篆刻2顆(2)

今日は蘇軾の前赤壁賦の文中より選んだ2句2顆です。

① 「挟飛僊以遨遊」 飛仙を挟(わきばさ)んで以て遨遊(ごうゆう)し

大意:天上の仙人を脇に抱えて自在に遊んだり

② 「抱明月而長終」 明月を抱きて長しえに終えん 

大意:明月を抱きながら長寿を全うする

この2句の後、「知不可乎驟得、託遺響於悲風。」  驟(にわか)には得べからざるを知り、遺響(いきょう)を悲風に託す。と続きます。

つまり、「それらのことは即座に得られるものではないことを知り、儚き思いを洞簫(笛の一種)の悲しげな余韻にのせ秋風に託したのです」と、蘇軾の「何故あなたの吹く笛の音が悲しげに聞こえるのか」という問いに対して、人の存在を儚きものと悟った同乗の船客が答えるのです。それは都を追われた蘇軾の思いに強く共振(共鳴)するものだったに違いありません。

挟飛仙以遨遊
54㎜×54㎜
抱明月而長終
75㎜×45㎜

旧作「遊趙孟頫赤壁賦」臨書と篆刻2顆(1)

王羲之を学ぶ際に欠かせない一つは、先賢の成功例として、趙孟頫が南宋から元にかけて王羲之書法の真髄に到達していった過程と、その優雅さと格調を駆使した墨美の世界を学ぶことにあると思います。

北宋の四大家と称される蔡襄・蘇軾・黄庭堅・米芾らが活躍したその約2百年後に趙孟頫は登場します。趙孟頫が遺した墨蹟を通覧すると、米芾たちが遺した名声や影響を目にしながらも、一貫して彼らとは一線を画した独自の表現を目指していたことが窺えます。

今回は、代表作ともいえる「前後赤壁賦」を臨書したものと、文中から選んだ2句、「挟飛僊以敖遊」と「抱明月而長終」の2顆です。

これら拙作は公募展に出品するためのものではなく、自らの学びの過程を振り返り自省するため「平常心」を心掛け取り組んだものです。

今日は、「前赤壁賦」の臨書部分についてご指導をお願いいたします。

遊趙孟頫前後赤壁賦
34㎝×170㎝×2
趙孟頫 前赤壁賦 國立故宮博物院(台北)

[拙臨]

前赤壁賦1
前赤壁賦2
前赤壁賦3
前赤壁賦4
前赤壁賦5
前赤壁賦6
前赤壁賦7

「道法自然」2貌

老子の象元第25の「…人法地、地法天、天法道、道法自然」(…人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る)より「道法自然」の印篆と楚簡による2貌です。

思えば、楚簡を印に応用するようになって久しい。そのためにまず楚簡各種の臨書に手がかりをもとめると、春秋戦国から秦に至る百花繚乱たる素材の埋蔵を知ることとなりました。それが自風開拓の第一歩だったように思います。

振り返れば、先師からは篆刻の学び方、実事求是の精神に触れておきながら、万事、おのれの浅学非才と社中という小社会の桎梏にもがき、己を見失いがちな時の流れに長い間翻弄されてきました。それは師の元を離れる決断を考えるようになって、漸く暗中模索のなかで始めたことでした。

模索は今も続いています。

道法自然(印篆)
23㎜×24㎜

道法自然(楚簡)
95㎜×29㎜

仏教関連2顆  「色即是空空即是色」と「斷貪瞋痴」

①般若心経より「色即是空空即是色」。

私は不勉強で、この8字印の先例を見たことがありません。「色即是空」と「空即是色」を別々に為すのは比較的容易いのですが、この8字を一つに配する章法となるとなかなか難しいものです。同字が2回ずつ使われる上に「空」が連続します。「空」は踊り字(繰り返し記号)を用いて3行構成(色即・是空空即・是色)にすると「即」が1行目と2行目で行尾に並び、「是」が2行目と3行目で横並びとなります。同字4種にはそれぞれ形に変化を加えることにも配慮しなければなりません。

拙作は、小篆を用い、「色即」を一つの文字のように工夫して、全体に安定感を持たせようと狙いました。

②仏教で、人間のもつ根元的な3つの悪徳を指す「貪瞋痴」。「貪(とん)」は自分の好むものをむさぼり求める貪欲,「瞋(じん)」は自分の嫌いなものを憎み嫌悪する瞋恚(しんい),「痴(ち)」はものごとに的確な判断が下せずに,迷い惑う愚痴のことで,三毒,三不善根などとも呼ばれています。自分の中にも巣くうそれらを断つという願いを込めた、小篆白文による作品です。

色即是空空即是色
28㎜×28㎜
断貪瞋癡
45㎜×45㎜

甲骨文 「人」と「刀」の筆順問題について

SNS上で、甲骨文「人」と「刀」の筆順問題についての投稿を拝見する機会がありました。漢字の字源についての魅力はとても豊かで奥が深いですね。その魅力を発信続けておられる先生の投稿です。少しばかり興味を持ちましたので、僭越ながら管見を記してみようと思います。

「人」の字形は側身形を表したもので、頭部・肩・腕・背・腰・脚を単純化した2画の線で構成します。一方、「刀」は扁刃の器で刀身と柄(口金・握環)をやはり2画で表わします。

甲骨文は神に対する王の卜占とその記録ですが、犠牲として使われた祭獣の亀甲(腹甲)や牛の肩甲骨などの硬い骨に、鋭利な刀器で刻みつけ、上から下へ(縦書き)、しかも字粒を数㎜の大きさに刻すという制約に縛られています。そのため、甲骨以外の場での書写と異なり、直線化・単純省略化・刻順の効率化などの工夫を余儀なくされます。(㊟縦画を上から下へ、横画を左から右へ刻すとは限らない。折画は連続させず2回に分けて刻す可能性も高い)

さて、本題の筆順についての問題ですが、先の投稿では、答えは正直わからないとしながらも、故宇佐美氏(文字文化研究所常務理事)の考え方を紹介し、「人」の筆順は頭部から腕にかけて1画、次にその中程から肩・背・腰・脚といっきに2画目とするとし、それに対して「刀」は柄から刀背にかけて1画、次に刃の部分が2画目としています。確かに、白川静先生は文字講話の際、壇上で模造紙にマジックで説明する「人」は私の記憶にある限りすべてこの筆順だったと思います。

しかし、私見では「人」の筆順は2系あるように思えます。甲骨文の資料として拓影や「甲骨文編」、「新甲骨文編」を参照すると、董作賓による五期分類に関わりなく、先に挙げた筆順とは別に、「人」の頭からした肩・背・腰・脚といっきに1画、そして腕を2画目にという筆順が認められます。

「人」の筆順に2系存在するという事実は、「人」(人偏)を含む他の字例をみても確かめられますし、「▇(化の旁)」や「比」などはほぼ後者の筆順になっています。

つまり、「人」の筆順を一つに特定することには無理があるように思えます。

ちなみに、「人」と「刀」の区別は、筆順の違いによるのではなく、「刀」には必ず柄にあたる部分があり、それは右上からの短い斜線で表すという点であることにも触れておきたいと思います。

また、「召」「到」が本来「人」を構成素としているにもかかわらず「刀・りっとう」に訛変している点についてですが、「召」は人が天から降りる様で人の倒形で腕が重力で下がっているため「刀」と同形になったことが誤りの原因ですね。しかし、「到」については西周では「人」の姿をとどめているものの秦簡あたりにその端緒が見えるようです。

浅学管見ゆえの過咎を懼れずに記しました。「文字飲を解す」友としてご容赦ご指導のほどお願いいたします。

 

商承祚旧蔵甲骨片拓[観星楼(拙齋)蔵] 

 

 

新甲骨文編「人」
新甲骨文編「刀」

 

「學而時習之不亦説乎」(論語 学而篇)

論語学而篇にある「學而時習之不亦説乎」(学びて時に之を習ふ。亦説ばしからずや)を小篆で刻したものです。

「學」にはバランスを考慮し、「學」の初形である「爻+子」(コウ)を採りました。「爻+子」は、白川静著《字通》によれば、「〔説文〕十四下に「放(なら)ふなり」、〔玉篇〕に「效(なら)ふなり」とするが、學(学)の初文とみてよく、卜文にその字がみえる。效には矢に攴を加える形のものがあり、それは矢の曲直をただすもので、別系の字である。」とあり、説文の誤りを指摘しています。なお、「學」の別字に「斅」を含めることがありますが、「爻+子」が「學」の初形であることを前提に考えると「敎」との関係において疑問を抱かざるを得ません。管見ゆえの過咎を懼れずにいえば、「學」は「まなぶ」であり、鞭の類である「攴(ぼく)」を加えた「斅」は本来「おしえる」意ではないのかと。ふと感じるのは、乱れた糸をヘラで「おさめる」意である「亂」を「みだれる」と誤用した例と似た匂いですね。

「學而時習之不亦説乎」     31㎜×31㎜

 

旧作「梁嶽頽峻」(任昉『齊竟陵文宣王行状』)

「梁嶽頽峻」 梁嶽とは梁に高くそびえる嶽(やま)。頽峻とは峻(たかき)を頽(くず)すこと。学徳兼ね備えた文人でもあった竟陵王文宣「蕭子良」の惜しむべき崩御を指している。

2006年に白川静先生、翌2007年に小林斗盦先生と巨星二人が相次いでご逝去されました。先師として薫陶を受けた両巨星の遺徳を忍び、心に刻まむとして、拙齋を「観星楼」と命名。この印はその時に、任昉の言う「梁嶽」に準え封泥調を以て刻したものです。

任 昉(じん ぼう、460 ~508)は、南朝斉から梁にかけて秀才との名声高き文学者。南朝斉の文化的な中心は、斉武帝の次男の竟陵王蕭子良(460~494 諡は文宣)のサロンであった。彼の邸宅である西邸には当時の第一級の文人が集い、その代表的な8名を「竟陵の八友」と呼んでいる。同じ八友の一人で、詩にすぐれた沈約に対し、「任筆沈詩」と称される。

蕭一族の蕭衍はやがて斉の暴政から兵を挙げ初代皇帝として梁を建国(在位502~549 諡は武帝)。その晩年は深く仏教を信仰し、戒律を守り、自ら「三宝の奴」(仏法僧に帰依する意味)と称した。南朝の仏教はこの時代に最も栄え、都建康には700もの寺院があったという。朝鮮の百済は梁に使者を送り、仏像や経典を求めた。朝鮮の仏教は中国の江南の仏教を移植したものといえる。日本に百済から仏教が伝えられたという538年(一説に552年)も中国南朝では梁の時代である。聖徳太子は憲法十七条で「篤く三宝を敬え」と言い、聖武天皇も自らを「三宝の奴」と称したのはいずれも梁の武帝の影響である。[一部引用 ウィキペディア]

梁嶽頽峻
54㎜×54㎜

 

「参省」九貌

篆刻の妙味の一つは、殷周秦漢二千年に亘って継承され、時に千変万化する篆書の造形美に心を遊ばせることにあると思います。その全体像を常に通覧していくことで感性の固定化、表現の陳腐化を避けたいと考えています。今回は、「参省」九貌です。

印篆     25㎜×12㎜
甲骨文         30㎜×30㎜
楚簡           24㎜×24㎜
金文               59㎜×59㎜
古璽        17㎜×17㎜
金文          60㎜×23㎜
印篆           24㎜×24㎜
金文           23㎜×23㎜
中山篆        23㎜×23㎜

「戢鱗潜翼」(晋書 宣帝紀)

「戢鱗潜翼」(晋書 宣帝紀)鱗をおさめ、翼を潜む

大意は志を抱いて、時機の到来を待つこと。官を辞して隠居する喩えにも用います。2013年、県立高校書道教員として最後の歳。次第に迫る退職の瞬間を心静かに待つ一方で、退職後に向けた抱志を白文鑿印風に表現した作品です。

戢鱗潜翼(晋書 宣帝紀)
59㎜×59㎜