戦国中山王圓鼎を習う(80)「厥命隹有」

《氏以賜之厥命。隹又死辠、及參世、亡不若。以明其悳、庸其工。老貯奔走咡命。寡人懼其忽然不可得、憚々業々、恐隕社稷之光。氏以寡人許之。、克又工智旃。詒死辠之又若、智爲人臣之宜旃。》

《是れを以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。死罪有りと雖も、參世に及ぶまで、若(ゆる)さざる亡し。以て其の徳を明らかにし、其の工(功)を庸とす。吾(わ)が老貯、奔走して命を聽かず。寡人、其の忽然として得べからざるを懼れ、憚々業々として、社稷の光を隕(おと)さんことを恐る。是を以て、寡人之を許せり。謀慮皆従ひ、克く工(功)有るは智なり。死罪の若(ゆる)さるる有るを詒(おく)り、人臣爲るの宜(義)を知るなり。》

○「」(厥):4回目です。[字通]によれば、上の「コ」の部分は取っ手で下の縦線が曲がった刃となる曲刀の形です。[説文]十二下の「氒」の条に「木の本なり。氏に從ふ。末よりも大なり。讀みて厥の若くす」(注:氒には根や切り株の意があるが、橛がそれと同じ意を持つ。「氏」は小さな取っ手のある刀) さらに[金文編]の「氒」には「橛の古文であり、敦煌本で隷古定という古い書体で書かれた尚書には厥を皆、氒としている」との説明が附されていて、活字への隷定では「氒」が充てられることがあります。しかしそれらはあくまでも声系が近いという問題からの孳乳。さらに、同じ刀類であっても「氏」(是)の形とは構造が異なる点については、白川静が「氏」の大きいものが「厥」つまり今回の字であるとしているのです。しかし、それでも「氏」の形を含む「氒」を充てる理由としては今ひとつ判然としないのです。従って、ここでは仮に「」としておきます。

○「命」:2回目です。「」は前回では上に伸ばしていましたが、今回はややコンパクトに収めています。中山三器での5例のうち、4例がこのパターンです。

○「隹」(雖):ここでは「雖」の意で使われています。「隹」の形をとるものは「唯」として用いるもの15例で、「誰」と「雖」がそれぞれ1例となっています。

○「有」:3回目です。今回のものは渦紋の終画を長く伸ばして、左上・右下・左下の3つのベクトルの調和を図っているようにもみえます。

 

戦国中山王圓鼎を習う(79)「是以賜之」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を。》

○「氏」(是):3回目。取っ手がある小型の肉切り刀の形ですが、「是」(ぜ・これ)の意で用いられています。金文には左右が逆になった字例があり、中山三器の円壺にある「氏」もその一つです。肥点と渦紋の位置は概ね同じ高さにして揃えます。

○「ム・」(以):6回目です。左上から入って中央の位置から左に転じ、弧を描くようにして最後は右上から中心線に向かって鋭く折り返して書きます。

○「賜」:「貝」と「易」からなる字です。しかし、甲骨文には明確にこの字であるとされるものはありません。ただ、甲骨文および金文には、酒の入った大きな爵から別の杯に酒を注ぐ(分け与える)形となっているものがあって、[字通]には「易」の構造をしたものとともに「賜」に比定されています。これが正しいとすれば、実に造形的に興味深い字でもあります。また、「易」について、同[字通]では「日+勿(ふつ)。日は珠玉の形。勿はその玉光。玉光を以て魂振りを行う。玉を台上におく形は昜(よう)で、陽と声義が近い。」とあるのですが、やや「昜」の字義に囚われた解釈ではないかとも思え、「易」の数多くある金文の字例を通観すればその説に多少違和感を覚えざるを得ません。[字通]が「賜」とした甲骨文および金文から判断すれば、爵を持つ輪の部分と注がれる酒をあらわす3つの線のみに簡略化したものが「易」となると考えるのが妥当であるような気がします。また、中山篆では「易」の「日」にあたる部分を右側に輪の様にして書く点についても、その意味では字義に適った造形であるともいえます。

[字通] 賜

○「之」:14回目となります。中央の縦画の後半右へ曲げる部分はなかなか難しいところです。伸びすぎてしまうと重心が左に寄ってしまう傾向があります。

 

戦国中山王圓鼎を習う(78)「德嘉其力」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)と其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

○「悳」(德):3回目となります。「直」の縦画の位置を「心」の中心に揃えて書きました。ただ、中山三器にみられる「悳」ではその意識はそれほど強くないようです。

○「嘉」:[字通]には、「壴(こ)(鼓)+加。加は力(耜(すき))に祝祷の器((さい))を加え、耜を祓い清める儀礼。それに鼓声を加えて秋の虫害を祓い、穀物の増収を祈る。その礼を嘉という。〔説文〕五上に「美なり」とするが、もと農耕儀礼をいう字であった。同じく丹・靑(青)を加えて力(耜)を清めることを靜(静)といい、その清められた農具で収穫したものを「静嘉」という。」とあります。丹青とは辰砂と靑緑で共に鉱物質で色が褪せることがなく、墓室の防霊や祭器を清めたりする際に使われるものです。下の[金文編](容庚編 中華書局)の「嘉」「静」「男」を列べた資料をご覧ください。耜とされる「力」にあたる部分は、農耕でも特に作溝用の道具で、先が3つの歯に分かれた形状をしています。その耜のそばに、収穫を祈るため祝祷を収める「」を置く形が「加」となります。しかし、「嘉」、「靜」では耜が単独ではなく耜を持つ手(爪)がつく形が多いことがわかると思います。「男」の字でも、1例だけですが、手が入っています。ところで、「嘉」の金文の字例をみるとわかるように、耜の上を握る手が中山篆だけは下の方に移動してしまっていること、「」が耜の上に移って「壴」が「喜」となっていることは他の字例とは異なっています。あえて手(爪)を下に移動させるこの意匠は、中山篆独特の感性であり、柔軟な装飾性であるといえると思います。なお、この部分は「靜」にもありますが、さらに耜の下にも手が添えられ両手で恭しく扱っている様子がうかがえ、「爭」が耜を両手で持つ形であることがわかります。

○「其」:9回目です。横画は概ね全体の縦中央になるように構成して書くとよいでしょう。

○「力」:中山三器では「力」はこの例のみです。高く右上から下ろした線を中央から右に膨らませてから左の方向に遠く放つ筆意です。2画目の歯の部分は縦画が字の中心にくるようにします。「力」(耜)単独で手が添えられない形です。

 

戦国中山王圓鼎を習う(77)「寡人庸其」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「頁」(寡):7回目。ここまではすべて「寡人」の成語として出てきます。

「人」:9回目です。

「庸」:午(杵(きね))を両手でもつ形の「庚」(こう)と木を柵のように組む形である「用」からなります。そこに入れた土を杵でつき固め墉(かき)を作ります。「庸」には、かき・もちいる・つね・おろか等の意をもちますが、ここでは「力を合わせ尽くした勲功」の意とするべきで「功」にあたるものとされています。

「其」:8回目です。筆順はまず横画を2本水平に書き、籠形の曲線を左上から右上まで一筆で書くか、または左右に分けて底で合流させます。脚部の前半はほぼ平行に締めた結体にします。

戦国中山王圓鼎を習う(76)「克敵大邦」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

○「」(克):4回目。「克」と通用する「剋」(こく・きざむ)の俗体に「尅」がありますが、この字形はそれに拠った構造になっています。

○「㒀」(ちゃく)(敵)(てき):「みだり」の意なるも音が近い「㒀」をあてていますが、ここでは「あたる」の意で用いています。「啇」(てき)はもとは「啻」(し)。「帝」は先帝を祀る祭卓の形で、祝詞を入れる器「」(さい)が添えられて先帝の祭祀をあらわしています。なお、「帝」の一部が「用」の様になっている点については、『貯』字論で触れた通り『貯』に比定するための重要な例証の一つで、「」が「曰」になっていることも含め、装飾的融通性がなす中山篆の特性です。

○「大」:人の正面形。「大」を含む字は「天・夫・去・立」などが既に出ていますが、単体としては初めての登場です。

○「邦」:7回目です。偏旁は雁行させず、比較的正対した構図です。

戦国中山王圓鼎を習う(75)「列城數十」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「剌」(らつ・れつ)(列):「列」に通仮させています。「剌」はものを束ねて中に収める形「柬」(かん)と「刀」からなり、束ねられたものが解かれて散らばった様でしょうか。「刀」が「刃」になることはよくみられるものです。「刀」で断首された「」(れつ)を列べる様をあらわす「列」よりは穏やかですね。

「城」:(64)にある「成」のまさかりにつけた飾りの下に、肥点を共有する形で「土」(横画を1本)を加え「城」としています。ここで注意することは肥点の位置が下に移るということです。「城」の字は「土」に従うものと、城壁にある望楼に従うものとがあります。

 」(數):前回に続いて2回目です。詳細は前回のものを参照してください。

「十」:2回目です。甲骨文では同じ1本の線でも横画を「一」、縦画を「十」として区別していましたが、亀甲を用いた占卜で甲羅の裂け目と思われる「甲」も縦画1本であらわすことがあり、金文では「十」の縦画に肥点を加えるようになっていきます。なお、現在の活字「十」の形は甲骨文・金文では骨を切断する形である「七」となります。

 

戦国中山王圓鼎を習う(74)「方數百里」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「方」:3回目です。垂直な縦画と水平な横画の緊張感によって下部の斜画とのバランスを保っています。

」(數):前後の文意から「数」の意とされていて其の字を充てています。しかしながら、字形は「数」の構成素とされている「婁」とは一見異なるもので、両手の「」(きょく)と、「解」に含まれるものと同形の「角」、そして「言」からなるようにみえます。于豪亮は上部は「解」の省略体で、音符「角」が「数」の音に転じたとしていますが、なお、解明には遠い気がします。そこで、中山器の「覆」をはじめ、「要」の金文、「遷」の古陶文にその類似形が認められることから、ここでは「襾」(か)の小篆体に拠る「」も加えて隷定してみました。

「百」:[説文]の古文にこの字形が掲載されています。本来、「百」は音をあらわす「白」の上に「一」をつけたものですが、ここでは「白」ではなく「自」となっています。中山篆の装飾的増画とみてよいと思います。ちなみに、中山以前の金文は皆、上の横画が其の下の部分とついていて塞いでいるかのようです。現在の活字体の字形は小篆と同様に離れていますが、中山篆が長尺にするために加えた装飾表現が関係している気がします。なお、中山三器の円鼎に「全」の形をしたものを「百」の意と解している点については未だ解決に至っていない問題の一つです。

「里」:「田」と「土」からなりますが、音の説明がつきません。白川静は「吏」との語源的な関係を示唆しています。「田」をコンパクトにして「土」を引き伸ばす構成をとっています。

 

戦国中山王圓鼎を習う(73)「闢啓封疆」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

」(闢・びゃく):この字形をどのように隷定するか。赤塚忠は「」とし、小南一郎は「」としています。しかし、これは「」とすべきでしょう。中山三器の同要素を含む字を参照すれば自明なことだと思います。同要素を含む字は、「戒・朕・送・棄・與」を挙げることができ、その「廾」(きょう)には2本の横画を添えるのが中山篆の特徴となります。

「啓」:祭壇の扉の中に祝告の器「」(さい)を収めた形の「启」(けい)と木の枝で撃って促す形「攴」(ぼく)からなり、もとは神の啓示をいう字です。「」の上の空間に「攴」の手の部分を押し込むような構成をとっています。

」(封)」:[字通]から引用すると「丰(ほう)+土+寸。金文の字形には、土の部分を田に作るものがある。土は土地神たる社主の形で、社(社)の初文。そこに神霊の憑(よ)る木として社樹を植えた。封建のとき、その儀礼によって封ぜられる。」とあります。この中山篆は土が田に変わったもの、つまり土地神が田神に入れ替わったものとなります。なお、「丰」には肥点がつくのですが、その彫りが浅いために拓影に反映されないことがありますので、注意が必要です。なお、小篆では「寸」となっていますが、金文以前の古い字形は「又」となっています。

「彊」(きょう)(疆):ここでは「さかい・かぎり」の意で用いられていますので、「疆」が正しく、「つよい」意の「彊」は仮借字です。中山三器の方壺には「土」が加えられている字がありそのことが確かめられます。旁がややバランスを崩していますので、中心をとって整えて書くと良いと思います。