「木鷄」(もっけい)『荘子』達生篇

ウクライナをめぐる情勢にふと浮かんだ旧作。力を振りかざし我が物顔に行動してくる輩に対して、どう対処するべきか。

「木鷄」は『荘子』達生篇にでてくる語。紀渻子(きせいし)という者がある王のために闘鶏を養成したのだが、みるみるうちにその頭角を現すも養成を了とせず、40日が過ぎた時には、木でできた鶏のように、敵の威圧にもまったく動ぜずして相手の戦意を萎えさせるほどまでに最強になったという一節に登場する。

「…鷄雖有鳴者、已無變矣。望之似木鷄矣。其徳全矣。異鷄無敢應者、反走矣。」(鷄鳴く者有りと雖も、已に変ずること無し。之を望むに木鷄に似たり。其の徳 全し。異鷄 敢て応ずる者無く、反りて走る、と)

新釈漢文大系によれば、「達生篇には、いわゆる神技に到達した境地を説話によって展開したものが多く、無心忘我の心境を得て知功の念を捨て去るところに至極の技があることを述べ、ひいて天地自然に順応して一切の人知をしりぞける時に至人の域に至ることを論じている」とあります。

この旧作、今となってみれば補刀の誘惑に駆られるほど拙作です。両字とも甲骨文の字形を基本としつつも、力を内包する金文の穏やかさを加味した表現で、疎密の構成に凛と屹立する闘鶏の姿を投影しようとしたものです。

「木鶏」
50㎜×50㎜

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