「必須遊心境物散逸懐抱」『性霊集』より

「必須遊心境物散逸懐抱」 『性霊集』巻3「勅賜屏風書了即献表 并詩」より

必ず須く心を境物に遊ばして、懐抱を散逸す

空海の漢詩文集『性霊集』は正式な名称を『遍照発揮性霊集』といい、弟子の真済が編纂したものです。

さて、この中に出てくる「境物」をどのように解釈すればよいのだろうか。単純に「外界の物」としてよいのだろうか。「境」の字について、『字通』(白川静)には「声符は竟(きょう)。竟は言を以て神に祈り、その感応として「音なひ」(※音によって認知される気配、訪ひ[星齋注])のあらわれる意で、これによって祈りが終わり成就する。ゆえに竟は終竟、場所的に移していえば、領分の終わるところ、すなわち境界の意となる。転じて一定の状態にあることをいう。」とあります。また、京都西山短期大学教授江藤高志氏は「空海の詩文における「境」の理念」において、「空海はこの「境」という言葉を区切りや地域を表す一般の意味と認識の対象世界を表す仏教語の意味とに、『性霊集』において使い分けている。」と述べています。空海は唐より帰朝する際に盛唐の詩人王昌齢の『詩格』を将来していますが、そこには「境」を既存の『懐風藻』や『万葉集』にはみられない新たな文学理念、つまり「心」と「象」との結びつきに焦点をあて、詩文を書くための着想を得ようと心を静めてゆき、対象とする深奥を「境」として、心に描き出そうとすることが重要だとする主張として取り上げていて、しかもそれは仏教思想に基づいたものであるとしています。つまり『性霊集』はその「境」の影響がみられることを前提として読み解かなければならないことがわかります。

「必須遊心境物散逸懐抱」は、先の江藤高志氏が指摘するように、『詩格』の『文鏡秘府論』南巻にある「須放情却寛之、令境生」(須く情を放にして却って之を寛やかにし、境をして生ぜしむべし)に相通じるもので、筆論として学書に臨む姿勢ついて論じた部分です。

「境物」とは、「万物の深奥に至る境地」などと勝手に解釈しての奏刀拙作です。

「必須遊心境物散逸懐抱」『性霊集』
40㎜×40㎜