戦国中山王方壺を習う(62)

「臣其宗不   (反って)其の宗を臣とす。不(祥)、

「臣」:3回目です。

「其」:5回目です。

「宗」:2回目です。

「不」:7回目です。

戦国中山王方壺を習う(61)

「人臣而(反)   人臣と(為り)て,反って

「人」:3回目です。

「臣」:2回目です。

「而」:4回目です。

」(反):声符は「反」(ハン)で「返」と同字。ここでは音通により「反」として用いています。「反」は厓に手をかけてよじ登ろうとする様。この「」は中山諸器では方壺と円壺それぞれに一つずつ登場します。「反」の手の部分「又」の上にある鬚状の画は「賢」字にもみられる装飾的増画ですが、方壺の場合にあるものの、円壺の場合は前半の粗略な刻銘の部分にあたるため省略しています。

戦国中山王方壺を習う(60)

「之貯曰爲   之を(非とす。)貯曰わく(人臣と)為りて

「之」:7回目です。

「貯」:4回目です。

「曰」:祝祷や盟誓の器「」(サイ)に収められた祝詞を、その蓋の一部を開けて告げる様、あるいは祝祷に対する神の啓示が現れる様をあらわしています。蓋にあたる部分の左側が少し開いていることに気がつくと思います。なお、拓によっては左縦画の上部が短くみえるものがありますが、器面の接写画像では左右ほぼ同じ長さになっていることが確認できます。

「爲」:2回目です。

戦国中山王方壺を習う(59)

「施(也)頁(寡)人非   (順ならざる)なり。寡人(之を)非とす。

「施」(也):2回目です。

「頁」(寡):円鼎では9回出てくるものの方鼎ではこの1回のみです。「寡」(カ)は廟所である「宀」(ベン)と「頁」(ケツ)からなりますが、「宀」を略した「頁」と通仮させています。「頁」の字形は頭部あるいは顔の部分を強調した祭祀の際に呪飾を施した人の姿です。その礼容を示すためなのか、中央に光彩を放つように配された4つの画は「光」字の場合と同様に装飾的に増画したものと思われます。別の可能性としては、「あらう・きよめる」意をもつ「沬」(ビ・マイ・バイ)の初文にあたる「」の金文が盥(たらい)の水を頭の上からかけて洗い清める姿をしていて、周囲に飛び散る水滴を4点で表現しているのですが、これを一緒に切り取ったのかもしれません。

「人」:2回目です。

「非」:左右に歯がついた櫛の形。西周の《内史友鼎》(殷周金文集成2696 「友」は異体字)に賜物の櫛として「非余」という語がでてきます。ここでは否定の意となりますが、仮借によるものです。「不・丕・否・匪」などは皆「ヒ」の音をもっていて本来の字源から離れて否定の意で用いるようになりました。

戦国中山王方壺を習う(58)

「不(順)(於)人   人に順ならざる(なり。)

「不」:6回目です。

」(順):2回目です。

」(於):4回目です。

「人」:人の側身形です。方壺では5例ありますが、その最初のものです。西周金文では頭部、躯本体、足と一筆で書き、その後に腕を加える形が多くなりますが、甲骨文では頭部から腕と書くのが主流で、中山篆も同様です。

戦国中山王方壺を習う(57)

「逆(於)天下   (上は)天に逆らい、下は

「逆」:声符の「」(ギャク)は向こう側からやってくる人の姿を倒形で表したもの。つまり「大」がが逆さまになったものであるから本来は肥点は必要としないのですが、装飾的に加えている様が接写画像にて確認することができます。

」(於):3回目です。

「天」:3回目です。

「下」:甲骨文は下に向けた掌の下に、その下方であることを示す線を添えた字です。「上」はその反対の構図です。しかし、共に数詞や繰り返し記号と混同されやすいので戦国以降は上下それぞれの方向に縦画を加えるようになります。

戦国中山王方壺を習う(56)

(會)同則(上)」   会同に(歯長せんとす。)則ち上は

」(會):「會」は蓋付きの蒸し器や甑(こしき)の形です。この器の部分を祝祷の器「」(サイ)に替えたのが「合」で、共に蓋と器が合わさることから「あう」意となります。さらに、「會」について、会合などに三々五々集まって出会う場合として甲骨文で表記する「」の形はこの「」と同様のものであり、「會・合・徻・」は互いに通用する関係かと思われます。なお、(44)の「徻」は燕王の名である「子噲」(シカイ)の「噲」として用いられていました。

「同」:酒杯に用いる盤である「凡」(ハン・バン・ボン)と祝祷の器「」(サイ)とからなる字です。会同の儀礼の際は、酒が供せられ神への祈祷が行われました。「凡」と「同」(ドウ)の声系についての関係は詳らかなるに到りませんでした。諸賢のお教えを請う次第です。

「則」:2回目です。

」(上):2回目です。この字は(53)の「庿」で触れたように、方壺ではこのあたりから、字形状の整斉さに乱れを生じたものが出始めますが、特にこの「」は同字(52)と比較して際立っています。ここでは(52)に倣い修正して書いてみました。

 

戦国中山王方壺を習う(55)

(侯)齒(長)(於)」   (諸)侯と、(會同)に歯長せんとす。

」(侯):2回目です。

「齒」:甲骨文は口中の歯が並ぶ形となっていましたが、後になって声符である「止」(シ)が加わりました。中山篆では四角い歯の形が並ぶ様が「臼」(キュウ)の形に譌変しています。「歯長」とはもともと「年長」の意ですが、この次に出てくる「会同」を含めた説明を小南一郎氏は「會同は、「周礼」などの言う所によれば、朝覲(チョウキン)が終わったあと、特別の事件があったときだけ、都の郊外に壇を築いて諸侯たちがそこに集合して天子の命令を聴く儀式。歯長とは、そうした会同の場において、それぞれの家柄や職務による順位にしたがってならぶ位置を定めること。」と述べています。諸侯や家臣が並ぶ序列に関する争い事はよくあることで、後世唐代の顔真卿の争坐位稿にまつわる事件もその一つの例です。

」(長):「長」は髪を長く伸ばすことを許された氏族の長老を指します。甲骨文では杖を持つ形、金文ではこの中山篆も含めて、高齢であることを示す「匕」(カ 屍体の形)がつく形があります。「立」は身分を示す「位」の意を持ちます。中山篆ではこの「」の他にも字の一部を「立」に替えたり加えたりした異体字として「創・發・範・踵」など数例見られます。  

」(於):2回目です。

 

戦国中山王方壺を習う(54)

「而(退)與者(諸)」   退いて諸(侯)と

「而」:3回目です。

」(退):「退」は、盛器である「日」、「ゆく・すすむ」意を持ち足の形「止」の倒形である「夊」(スイ)、更には「辶」とからなり、神前に供えた盛器をさげる様を表す字ですが、中山篆は祝祷を収める器「」(サイ)を加えた構成になっています。

「與」:貴重な象牙一対を両手で挙げている形です。中山篆では両手で挙げる形は兆域図などの簡略体を用いる場合を除き、「弇(エン)・棄・朕・闢」などで見られるように基本的に両手の間に「二」を装飾的に加えています。

「者」(諸):2回目です。

戦国中山王方壺を習う(53)

「天子之庿(廟)」   天子の廟

「天」:2回目です。

「子」:3回目です。

「之」:6回目です。

「庿」(廟):字形の不安定な部分を若干修正して書いてみました。この字は「廟」を「庿」(ビョウ)に通仮させています。しかし、「庿」は[説文]に「廟」の古文として録しているものの、「廟」の声符「朝」(チョウ)とは異なります。「廟」の音が変化したためでしょうか。あるいは「廟」の声は本来はチョウとすべきなのでしょうか。「庿」形の字は「廟」の古文に採られており、その根拠の一つが戦国中山での用例なのかも知れません。《字通》には「〔隷釈〕(※[宋]洪適 撰)所収のものに庿の字はみえず、庿は北魏の〔元徽墓誌〕、隋の〔孔神通墓誌〕などに至ってみえる。」とあります。中山国遺址の発見は1974年ですから宋代の〔隷釈〕に中山方壺のこの用例が載っていないのも当然ではありますが、この戦国中山国においてすでに使用されていた「庿」形の字は「廟」の省形による異体字とみるべきなのかもしれません。「廟」の字は甲骨文にみると、まだ月が残る時刻、草原のかなたに日が昇る構成となっています。仮に「庿」を「朝」の要となる「艸・日・月」の「月」を略し、「日」が変化した異体字と推測するのは乱暴でしょうか。現に、中山篆では「昔」字において、「日」を「田」に変化させている例があるのです。この推論は中山方壺のこの「庿」(廟)字あたりからみられる、箍(たが)が弛みバランスを微妙に欠いた字形がいくつか(この後(56)の「」(上)など)混じるようになる点や円壺が冒頭のみ倉卒で稚拙な刻になっている点、兆域図などでは簡略体を用いている点、そして「庿」は古い時代での用例がないという背景を踏まえるとその可能性はゼロではない様な気がします。