戦国中山王方壺を習う(95)

(愛)深則孯(賢)   (寵)愛 深ければ則ち賢(人は親しみ)

」(愛):後ろを顧みて振り返る形「旡」(キ)と「心」からなり、心をかけ慈しむ意の字です。(ただし、楚簡や古璽には左向きのものが散見され、円壺にある字例も簡略体ですが左向きです。)この字は戦国期を遡る古い字形が見当たりません。小篆では下に足の形「夊」(スイ)が入りますが、楚簡にはないようです。なお、現在の「愛」の形は漢以降の譌変によるもの。右に垂下した線は修飾画と考えてよいと思います。

「深」:中山諸器では唯一の字例です。声符「穼」(シン)の初文である「」は[説文]で火をもって穴の中を探る象とされ、水中の深さを探り測るのが「深」となります。しかし、この中山篆の「深」において、「穴」の中の「水」を除いた部分を「火」と採るには形状に無理があるように思えます。これは方壺中の「述」に含む「朮」(ジュツ)と同じもので、祟りをもたらす獣、あるいは土中に棲む「おけら・もぐら」の類であって、手を強調し、穴の中の土を手で掻いて探る象であると思われます。ちなみに「述」の「朮」にある上部の2点は、掻きだした土と思われますが、甲骨文の「朮」はこの中山篆「深」の「」のように2点を略していることもその傍証となります。

「朮」 新甲骨文編

「則」:5回目です。方壺の6例のうち、旁の「刀」を「刃」にするものが1例だけあります。

「孯」(賢):6回目です。

戦国中山王方壺を習う(94)

「孯(賢)人至(寵)   賢人は至り、寵(愛)

「孯」(賢):5回目です。

「人」:4回目です。

「至」:[説文]では鳥が地に下る象としていますが、これは射られた矢が地に至る象です。古代、廟屋などを設ける際に矢を射して場所を決めました。「室・屋・臺」などがその関連字です。円鼎と方壺に1例ずつあります。

」(寵):この字の解釈については諸説紛々としていますが、ここでは「寵」(チョウ)とする説をとります。「寵」とする説は、この「」が「厂・歩」を構成素としていて「龐」(ホウ)と声が近く、同じく龍の姿をした神の居所をさす「寵」に通ずると判断されるものです。他にも「歩」の声によって「拊・撫」とする説があります。小南一郎氏は『戦国策』齊策四に孟嘗君とのやりとりの中での馮諼(フウケン)の言葉「今君有區區之薛、不拊愛子其民」(今、君、区区の薛をたもち、拊愛して其の民を子とせず)に「拊愛」の語があることを指摘しています。なお、「」を異体字にもつ「願」であるとする説もありますが、この方壺中、「願」に対して「忨」の形をした字を通仮させていますので、首肯しかねます。

戦国中山王方壺を習う(93)

(辭)(禮)敬則   (故に) 辞礼 敬しければ則ち

」(辭):この字形は「言」と「ム」と声符「辛」(シン)からなり、音通によって「辭」に充てています。「辭」は絡まった糸を上下から手を加えて解きほぐそうとしている様の「」(ラン)とそのために用いる針「辛」とからなっていて、訴訟のときの嫌疑を解きほぐすための辞を表しています。つまり、同じく本来「おさめる」意である「亂」の糸を解きほぐすためのへら状の道具が針に替わったものとなります。「辭」の字は中山諸器では方壺に1例のほか、円鼎に「詒」(イ・タイ)の形による1例があります。「辭」と「詒」との関係については、「言」は敗訴の際の辛刑に使う「辛」と祝禱や誓約の辞を収める器「」(サイ)とからなるものであることから通じていたものと思われます。

」(禮):2回目です。

「敬」:2回目です。

「則」:4回目です。

戦国中山王方壺を習う(92)

「卽(得)民(故)   即ち民を得。故に

「卽」:中山諸器では唯一の字例。「即」の旧字で、盛食の器である「皀」(キュウ)と人が坐す形「卩」(セツ)からなる字です。席に即き、今まさに食事を始めようとする象です。ここでは「卩」の下に横画を加えていますが、それを含む「卲」や「卿」などには加えておらず、この「即」と「節」のみにみられるもので、偏旁それぞれの脚が交錯する状況を回避する意匠と思われます。なお、[説文]の「垐」(シ・ジ・ショク・ゾク)の條に古文として「卽」と「土」に従う字があることを理由に、この字を「次」として解す説がありますが、白川静氏をはじめとする諸賢の釈の通り、ここは素直に「すなわち」としてよいと思います。

」(得):3回目です。

「民」:目を刺して失明させる象です。郭沫若氏は奴隷であるとしています。方壺に3例ある他、円壺の1例は目の中に2点加え、さらに肥点は左右に開く形に変えた形となっています。

」(故):3回目です。

戦国中山王方壺を習う(91)

「才(在)(得)孯(賢)其   (務ること)賢を得るに在り。其の

「才」(在):方壺では既に「才+士」の構成による「在」が2例出ているのですが、ここでは「才」を「在」に通仮させています。「才」は祝禱の際に祝詞を入れる器「」(サイ)を括り付けた標木です。なお、「在」は「才」と「土」からなるとする[説文]は誤りで、鉞の形である「士」とするのが正しい。鉞の形である「士」と「王」はともに身分象徴として用います。

」(得):2回目です。

「孯」(賢):4回目です。

「其」:8回目です。

戦国中山王方壺を習う(90)

「之聖王敄(務)   (夫れ古の)聖王は務ること

「之」:12回目です。

「聖」:「耳」と祝禱の器「」と地に挺立する形「」(テイ)からなる字です。中山諸器では唯一の字例です。祝禱に対し、神から啓示の声を聞き分ける者を「聖」といいます。

「王」:5回目です。

「敄」(務):矛を携えて赴く様とされる「敄」(ボウ)が声符です。「務」はその努める様です。ただ、「敄」の字形を見ると「矛」の部分は鎧のように身につけているようにもとれます。[金文編]で「矛」を含む字(敄・遹・茅)を列べて比較するとその形状に複数の型があり、中山篆はその中でも異色の存在であることがわかります。

戦国中山王方壺を習う(89)

(皆)賀夫古   (諸侯も)皆な賀す。夫れ古の

」(皆):[説文]の字形は「比」と「白」からなりますが、金文などの古い字形は人が並ぶ形「从」(ジュウ)と祝祷の器「曰」(エツ)とからなります。祝祷によって多くの霊が降臨することを表す字です。戦国中期で楚国の陵墓であった郭店などから出土した楚簡にこの構成による字例があります。ただ、音の関係については詳らかではないようです。

「賀」:「加」と「貝」とからなります。《字通》には「加は力(耜(すき))を祓い清めてその生産力を刺激する儀礼。貝は魂振り、生産力を刺激する呪器」とあります。中山諸器では唯一の字例です。

「夫」:3回目です。

「古」:聖器である干(盾)「十」を祝祷の器「」の上に載せて護る形の字です。中山諸器では唯一の字例です。なお、中山篆では「」を「日」のように一画増やすことがあり、「否・告・舎・啇」などがその例です。

戦国中山王方壺を習う(88)

「中(仲)父者(諸)(侯)   仲父を(策賞せしむ。)諸侯も(皆な賀す。)

 

「中」(仲):2回目です。「中」は軍の本陣(中軍)に立てる旗竿の形で、円鼎に1例、方壺に3例ありますが、吹き流しがないのはこの例のみです。

「父」:斧や鉞(まさかり)の刃の部分を手で持つ形です。中山諸器では唯一の字例となります。「仲父」(チュウホ)とは功臣に対する尊称です。ここでは相邦(相國)である貯のことを指しています。

「者」(諸):3回目です。

」(侯):3回目です。

戦国中山王方壺を習う(87)

「其老(策)賞   其の老を(して仲父を)策賞(せしめ、)

「其」:7回目です。

「老」:長髪の人の側身形である「耂」(おいがしら)と屍体である「」(カ)からなる字です。本来は首から脚にかけて連続する線が、中山篆では分割された形になっています。

」(策):「」(セキ)は「木をさく・ときほぐす」などの意をもつ「析」に同じ。声が近い「」を「策」として音通させています。「策」は策命つまり詔書として命ずることです。

「賞」:声符は「尚」と「商」の2系があって、西周金文では「商」に従うものが主です。この「賞」は「貝」の脚部が省略されていますが、「貯」も円壺では同様に略しています。もともと「貝」の古い字形に2脚はなく、この脚をつけると「鼎」の形に酷似してしまうのです。「則」の偏は正しくは「貝」ではなく「鼎」であることもその一例です。このあたりの事情を理解すると脚を省いた「貝」が「目」と捉えられることはないでしょう。

戦国中山王方壺を習う(86)

「其又(有)勛(勲)(使)   其の勲(有るを忘れず)、(其の老を)して

「其」:7回目です。

「又」(有):6回目です。

「勛」(勲):「勛」(クン)は「勲」の古文で、円形の鼎と力とからなる会意字。力を尽くした功績に対しての賞勲を指しています。一方、「勲」の字形はもとは糸束を火によって薫染する様である「熏」(クン)と「力」からなっています。

」(使):4回目です。ここでは使役動詞として使われています。字形が歪んでいますので修正を施しました。