戦国中山王圓鼎を習う(12)「爲人宗閈」

「爲」:字通によれば、「象+手。説文三下に「母猴なり」とし、猴(さる)の象形とするが、卜文の字形に明らかなように、手で象を使役する形。象の力によって、土木などの工事をなす意。」とあります。

「人」:既に出てきました。脚部は垂直に下部を太くしないように書きます。

「宗」:字通によると、「宀(べん)+示。宀は廟屋。示は祭卓の形。説文七下に「尊祖の廟なり」とあり、宗廟のあるところ、またその祭る祖宗をいう。」とあります。祭卓の脚を2本略して書きます。

「閈」:字通を引用すると、声符は干(かん)。干は盾。防備用の門、説文十二上に「門なり」とし、「汝南の平輿にては里門を閈と曰ふ」とあり、古くは里門をいう語であったようです。「宗」と同様に左右対称に書きます。

戦国中山王圓鼎を習う(11)「弇夫悟長」

「弇」:合と両手の廾(きよう)からなり、「深い、ひろい」意を持ちます。説文の「蓋なり、合と廾の会意」としている点について、白川静は小篆の字形によって疑問を呈し、その甲骨文の字形から考えると婦人の分娩の形であるとしています。

「夫」:人の正面形である「大」と髪飾りの簪(かんざし)からなる字。男子の正装の姿ですが、それに対して女子が髪飾りをした形が「妻」となります。最終画の斜画の始筆は接点からではなく、少し上部からにすることがポイントです。

「悟」:字形は「豸」(たい)と「吾」からなります。この「豸」は「墜(地)」にも含まれています。腰のあたりにある渦巻き状の飾りは極めて細い刻線であるため拓影に顕れないことがありますので拓から習う際は注意が必要です。

「長」:「立」と「長」からなる字です。「長」は長髪が許された長老の姿。「立」が加えられた字例は戦国時代の韓の編鐘として知られる「□(厂+驫)羌鐘」(ひょうきょうしょう)にも見ることができます。「立」と「長」を緊密にして書きます。

戦国中山王圓鼎を習う(10)「君子徻睿」

「君」:聖職者の杖である「尹」と祝祷を収める器「さい」からなる字。中山国の篆書は左右対称になっていますが、本来は手に杖を持つ形です。

「子」:おさなごの形。古い字形は頭を大きくしていますが、ここでは八頭身美人のように小さく収め脚の長さを強調しています。

「徻」:子徻とは戦国期の燕王「噲」(かい)(在位 前320~前314)の名で、文献には「噲」の字を用いています。「會」は甑(こしき)に蓋をした形。春秋晩期の沇児鐘(えんじしょう)銘には「會」と「しんにょう」からなる字を「會」の意で用いています。このように、この時代はおおらかな通用のほか省画や変形そして装飾がみられます。「會」の下部は旁の中心を揃うことよりも偏旁の間隔が空いてしまうことを避けたようです。しかし、方壺の2例の通りに旁の中心を整えるほうが良いと思います。

「睿」:「睿」と「見」からなっていますが、「睿」や「叡」の異体字と思われます。「深い・あきらか」の意を持ちます。なお、字通では、「睿」の上部を「面を覆うている帽飾」としていますが、この字形を見れば明らかなように、本器銘の後半に出てくる「死」を構成し残骨を表す「歺」(がつ)と同源であるとみてよいと思います。

 

戦国中山王圓鼎を習う(9)「淵昔者郾」

「淵」:旁部が声符の(えん)。説文に「回(めぐ)る水なり」とあり、旁部は水の回流する形で、淵の初文です。「淵」は水の流れが複雑に交錯する様であるのに対し、崖の下から水が一方向に流れ落ちる場合が「泉」です。金文の字形では、これを上下対称にしたものが「淵」となっています。水流の一画に渦を巻く表現は「壽」に含まれる「疇」と似ています。

「昔」:肉を薄く切って陽に晒し乾肉を作っている様です。甲骨文や金文では肉が乾燥してしわしわになり波打っている姿で、2~3枚が重なるように並べられています。下の部分は「田」に変わっていますが、本来「日」で乾燥するまでの時間の経過を暗示させるものです。

「者」:木の枝を交叉させたものと土で祝祷を収めた器を覆う形。居住地の周りに外部からの邪霊の侵入を防ぐために土中に埋めるものです。そのようにして守られた邑が「都」です。中山国の篆書は「止」の形に変化しています。

「郾」:「燕」は周から春秋、戦国と命脈を保った国で、金文では音通により「郾」の字形を使っています。「郾」の偏部は、秘匿の場所において女子に魂振り(神気によって霊魂の活力を高めるための儀式)を行う様で、「晏」と同系の文字。中山国の篆書では、円鼎や方壺では玉(日)部を変化させて「日」には見えませんが、胤嗣円壺では「日」の形をとどめています。

 

戦国中山王圓鼎を習う(8)「施寧溺於」

隹十四年、中山王作鼑。于銘曰、於虖、語不(發)哉。寡人聞之。蒦(與)其汋(溺)於人施、寧汋於淵。》

隹(こ)れ、十四年、中山王□(せき)、鼎を作る。銘に曰く、於虖(ああ)、語も□(悖・もとら)ざる哉(かな)。寡人之を聞けり。其の人に汋(おぼ)れんよりは、寧ろ淵に汋れよと。》

「施」:諸氏は「也」の意としているものの旃(せん)の形をあてています。その理由を、李学勤氏の指摘である、漢代の儒者である戴徳が礼に関する古代文献を整理した『大戴礼記』武王踐阼篇の周の武王が万世に伝わる格言から自戒の銘を作ったとする件に、「盥盤之銘曰、与其溺於人也、寧溺於淵。溺於淵、猶可游也。溺於人、不可救也。(盥盤(かんばん)の銘に曰わく、其の人に溺れん与(より)は、寧ろ淵に溺れよ。淵に溺るるは、猶ほ游(およ)ぐ可きなり。人に溺るうは、救ふ可からざるなり)」によるところとしています。しかし、何故「也」に「旃」をあてたのか。適するものがないため近い字形をあてたと思いますが、中の部分は「旃」を構成する「冉」でも「丹」でもありません。むしろ「它」の変形とみるべきで、私は「」であると思います。「施」と「也」は音通するのです。 ちなみに、「施」の部首は「かたへん」となっていますが、屍を打つ象である「放」などとは異なり、旗竿の象を含む字ですから、部首はとして「はた」などの名称とするべきではないかと思います。

「寧」:字通によれば、宀(べん)+心+皿(べい)、丂(こう)からなる字で、丂(こう)がつかない寍も同字であるとしています。宀は廟所。皿上に犠牲の心臓をのせて祭り、寧静を求める儀礼の意です。中山国の篆書には丂(こう)の有無による2系のほか、宀(べん)を略したもの(方壺にあります)の合わせて3種があります。ここでの字形は、皿(べい)を簡略化したものとなっています。

「溺」:「しゃく」のさんずいの部分が傷んでいるために拓影が鮮明にでないものもあります。状態の良いものに拠って習うと良いと思います。

「於」:前述していますので参照して下さい。

 

戦国中山王圓鼎を習う(7)「其汋於人」

隹十四年、中山王作鼑。于銘曰、於虖、語不(發)哉。寡人聞之。蒦(與)其汋(溺)於人施、寧汋於淵。》

隹(こ)れ、十四年、中山王□(せき)、鼎を作る。銘に曰く、於虖(ああ)、語も□(悖・もとら)ざる哉(かな)。寡人之を聞けり。其の人に汋(おぼ)れんよりは、寧ろ淵に汋れよと。》

「其」:穀物の殻や塵を取り除くための器である箕(み)の形で、其が代名詞・副詞に用いられたために作られた箕の初文。下部は「典」と同様に物を載せるための机や台の形ですが、金文には両手で掲げる形となっているものもあります。

「汋」:ひしゃくの形「勺」を含む字ですが、ここでは音が近い「溺」の意で用いられています。「勺」の形は西周「伯公父勺」の銘文中にある「酌」で確認ができ、ひしゃく本体をあらわす部分とそれに盛られたものをまるい点であらわした部分からなります。下の部分は続けて巻き込むように書くのではなく、最後は点を打つようにして書きます。

「於」:拓によっては鳥の目にあたる部分が2つの点になっているようにみえるものがありますが、その上にあたるものは器面の傷か銹によるものです。

「人」:縦画の位置は、第一画の起点の位置よりも僅かに右に寄せます。線は切り刻む感じで運筆することが肝要です。

 

雅印「一吼」

久しぶりに最近刻した雅印をご紹介いたします。

「一吼」は、毎日書道展会員・独立書人団審査会員・栃木県独立書人団代表・栃木県書道連盟常任理事研修部長、書泉会代表などの任にあり、将来を嘱望されている斎藤一吼先生の雅号です。先生は独立書人団において表現領域を狭しとせず、優れた技術力と豊かな感性によって類稀で格調高い作品を発表し続けておられます。

この雅印は、先生の作風を念頭において制作したものです。奇抜に走らず、意識と感性を沈潜しつつ品格を醸し出すような氏の表現スタイルに沿えるようにと意図したものです。

 

「一吼」 35㎜×35㎜

 

戦国中山王圓鼎を習う(6)「人聞之蒦」

隹十四年、中山王作鼑。于銘曰、於虖、語不(發)哉。寡人聞之。蒦(與)其汋(溺)於人施、寧汋於淵。》

隹(こ)れ、十四年、中山王□(せき)、鼎を作る。銘に曰く、於虖(ああ)、語も□(悖・もとら)ざる哉(かな)。寡人之を聞けり。其の人に汋(おぼ)れんよりは、寧ろ淵に汋れよと。》

「人」:人の側身形です。まさに人偏の形をみることができます。筆順は甲骨文は最初に頭から腕、次に首から胴体および足とするのが多く、金文になると頭から胴体および足を最初にするものが多くなります。字形は、腕の先端より下の脚を長くします。

「聞」:甲骨文は跪いた人の側身形の耳を大きく強調した形です。聞は戦国期に至ってみえる字、声符である門は神廟の扉で、そこにおいて耳を傾け「神の音ずれ(訪れ)」を聞く意です。中山国の篆書は説文の重文にもありますが、「耳」と「昏」に従っています。この小刀で肉を切り分ける形である「昏」には古い字形に酒器である「爵」を含むものがあり、神の訪れの兆候を聞き取る儀式に関係しているのではないかと言われています。偏旁からなる字ですから、片方(この場合は旁)をすこし詰めて下部に空間を残します。

「之」:境界から一歩足を踏み出す形です。横画の上の部分は「止」で足跡の形で、左右相称に上下に配したものが「歩」となります。「歩」は「止」と「少」からなるのではありません。字形は、上部をスラリと伸びやかに書き、左2本の縦画の間隔を次第に狭くするように運筆します。

「蒦」:冠毛がある鳥を表す「雈」(かん)に又(手)を加えた、鳥占(とりうら)の意です。「蒦」には「こ」の音があって、それは「與」と近いことから「與」の意で用いられています。冠と隹と又の密な組み合わせですから、隹の横画の分間を詰めることが必要です。

 

 

戦国中山王圓鼎を習う(5)「不□□寡」

隹十四年、中山王作鼑。于銘曰、於虖、語不(發)哉。寡人聞之。蒦(與)其汋(溺)於人施、寧汋於淵。》

隹(こ)れ、十四年、中山王□(せき)、鼎を作る。銘に曰く、於虖(ああ)、語も□(悖・もとら)ざる哉(かな)。寡人之を聞けり。其の人に汋(おぼ)れんよりは、寧ろ淵に汋れよと。》

「不」:花の付け根の部分で、花弁や子房などを支える萼の形。しかし、その意で用いることはなく、打ち消しの意で用いています。萼本体の部分と左右斜めに落とす線を一体化するために2画をクロスさせています。▽の空間を小さくするのは長脚に見せるためです。

「□」:この字は「立」と音符となる「癹」からなります。「癹」は「發」の初文で白川静氏は「字通」でこれを「發」であるとしています。ただ、諸氏は音通より「悖」(音:はい、訓:もとる 、道理に逆らう)意で用いているとしているようです。作製した外字は図版を参照して下さい。はつがしらが幅をとるので偏旁を緊密にさせています。「立」の下は空け、旁の脚を強調させます。

「□」:これは「哉」の意で用いています。字形は「幺」を2並べたもの(音:よう)と「才」からなっています。「才」の横画の位置は5分の2ほどのところにします。

「寡」:「寡」の字形は戦国以前とそれ以後では2つの系統に分かれるようです。ここでの字形は戦国の楚簡の系統に近いもので、「頁」の左右に4つの画があります。おそらく、これら左右4つの画は「光」でもみられ、また「若」では右に2画添えるなど、いずれも装飾表現と思われます。ただ、「沬」(音:び、字形は水盤を返して頭から水をかけるさま)の金文にもこれと酷似したものがあります。その4つの画は水が飛び散る様だと思われますが、これらとの関連が気になるところです。なお、「寡」の小篆は「宀」(べん)と「頁」(けつ)と「分」から構成されていますが、「分」はこの小さな画と「頁」の足の部分を合わせたことによる訛謬だと考えられます。「寡」と「顧」は楚簡においては通用し、「顧」に同形が認められます。

 

戦国中山王圓鼎を習う(4)「曰於虖語」

隹十四年、中山王作鼑。于銘曰、於虖、語不(發)哉。寡人聞之。蒦(與)其汋(溺)於人施、寧汋於淵。》

隹(こ)れ、十四年、中山王□(せき)、鼎を作る。銘に曰く、於虖(ああ)、語も□(悖・もとら)ざる哉(かな)。寡人之を聞けり。其の人に汋(おぼ)れんよりは、寧ろ淵に汋れよと。》

「曰」:祝詞や盟誓を収める器の上部の一端が開けられた形。神意が示され確認する様。すらりと伸びる縦画は筆を立て、慎重に運筆することが求められます。

「於」:鳥を含む字形ですが、なお不明な点があります。西周金文にこの字形のもとになったと思われるものがあります。鳥の右脚を字の中央に配して書くとまとまりやすくなります。

「虖」:声符は「乎」で、神事の際に用いる鳴子板の形です。「虍」も音は「こ」となります。虎頭の飾りをつけていたか、虎が神事に関して意味をもっていたのかもしれません。左右の渦巻きは鳴子板の音を発生させる舌状の板を装飾化したものと思われます。上部から中央を切って左下へ展開する流れを意識して字形をまとめます。

「語」:声符の「吾」は祝詞を入れる器に板を交叉させた蓋を二重にのせています。これに対し、偏の「言」は祝詞を入れる器の上に入れ墨刑のための針「辛」を載せています。 白川静氏は、「言語と連称し、言は立誓による攻撃的な言語、語は防禦的な言語である」としています。 中山国の篆書では、偏旁ともに同じ大きさにせず、縦の長さを変えたり位置をずらしたりして長脚を強調させるようにします。