戦国中山王圓鼎を習う(68)「今吾老貯」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今)(吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「含」(今):2回目です。「含」は「今」と祝告を納める器「」(さい)からなる字で、「盦」や「飲」の古字である「㱃」(いん)にも含まれている「今」は栓をもつ器の蓋ですが、ここでは「今」の意で用いています。前例では栓の先端を「」の中に入れていませんが、今回を含む2例は中に納める形です。なお、この「含」を「今」として用いている他字の例には「念」があります。

」(吾):4回目となります。文字の中心を意識して全体をまとめます。

「老」:2回目です。『戦国中山三器銘文図像』のものはやや傾いているようです。修正して書いてみました。

「貯」:この字は、なお諸説紛々なものですが、あえて結論を言えば「貯」であると思います。諸氏では例えば、赤塚忠は「」、小南一郎は「」、白川静は「賙」をあてるという状態です。しかし、張守中が発掘後早々にまとめた詳細な研究報告の中で、この字を「貯」と隷定している説が最もうなずけるものと考えます。しかし、近年その張守中を師とする郝建文が『戦国中山三器銘文図像』の中で、これを「賈」(こ・か)としています。それはどうしたことでしょうか。「賈」の構成素であって器の蓋をあらわす「襾」(こ・あ)の形とはほど遠いものと思えます。なお、ここでは詳細に触れる紙葉がありませんが、ポイントは、中山三器の円壺に同字の速書きともいえる簡略体があり、それと比較すれば方向性が開けるのではないかと考えています。「貯」字論に関しては、小見拙稿を次回ご紹介しようと考えています。

 

 

 

戦国中山王圓鼎を習う(67)「憂勞邦家」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今)(吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「」(憂):「憂」は「」(ゆう)と「夊」(すい)からなる字ですが、「」が初文となります。頁(けつ)は儀礼に臨む人の姿で、夊はあちこち歩き回る意のたちもとおる(立ち徊る)形です。しかしすでに頁に足がふくまれていて重複しています。憂いごとを抱えて右往左往することを強調するために「夊」を加えたものです。中山国の篆書では中央に雁垂(がんだれ)のような画がありますが、これは「頁」の足部が変形したものと考えられます。中山三器の円壺にはそのことを裏付ける字例があります。

」(勞):「勞」はたいまつを束ねた形「」(えい)と「力」からなりますが、ここでは省略と「心」への交換がされています。この「勞」は中山三器では唯一の字です。

「邦」:5回目となります。偏の肥点と旁の折り返しの位置を概ね合わせて書きます。

「家」:犬などの生け贄を埋めて地の霊を鎮めた建物。これも中山三器で唯一の字です。中山三器で「豕」(し)を含む他の字例では小さな渦紋は身体の中には入っていません。しかし、この「家」の場合は接写画像で確認しても勢い誤ったとも思えず、あえて変化を加えたようにみえます。

「豊道春海と日本芸術院」

栃木県に生まれ、敗戦後の日本の書道教育と書藝術の恢復に尽力した豊道春海。その彼を顕彰する会の会報に投稿したものをご紹介させていただきます。「豊道春海と日本芸術院」と題した拙文です。拙齋蔵の春名好重宛書翰をもとに筆を執ったものです。(広告の段をカットしたもの)

 

会報17-6-7_

戦国中山王圓鼎を習う(66)「行四方以」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以(憂)勞邦家。含(今)(吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「行」:4回目。拙臨では右下後半に外へ展開し始めるところがやや早すぎました。

「四」:初回に続く2度目となります。他の字とは異なり、縦の字枠をすべて埋めるのではなく上下を空けた結構です。

「方」:2回目です。屍を横木に架け邑の境界地において外からの異族邪霊の侵入を防ぐ呪禁行為をさす字です。左下へ向かう2画の方向は平行ではなく若干閉じる傾向があります。

」(以):4回目です。中山三器だけで24例もある字です。「以」の意で用いるこの字は耜(すき)の形で一画で書きます。「以」の活字は「(ム)」と「人」からなっていますが、「人」が加わるようになったのは戦国期の雲夢秦簡あたりでしょうか。甲骨文、金文は「人」が入りません。従ってこれに充てる活字は「」以外にも、耜を祭祀によって清める象である「台」字の「ム」としても良いものです。なお、常用漢字「以」は現在5画とされているわけですが、正しくは4画とすべきで、現にそのように編集している字書に『古文字類篇』(高明 他編著)等があります。

 

戦国中山王圓鼎を習う(65)「身勤社稷」

※文章中に外字画像を貼り付けています。表示されていない部分はホームページからは閲覧できますので参照してください。
https://kanseirou.com

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以(憂)勞邦家。含(今)(吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「身」:身ごもっている女性の側身形です。右上の渦紋は「身」を含む「信」(人偏が身となる)と「體」(骨が身にかわる)では「し」のような簡略化したものになり、「身」単字で渦紋になっているのはこれだけです。しかし、中山篆書ではどちらの形に従うかについては融通性があります。下に、最近依頼を受けた「信」一字による拙作雅印を添えておきます。

「勤」:声符の「堇」(きん)は、饑饉などの災いを祓うために巫女である「」を火にかけて焚く形です。「力」は農耕の耜(すき)で、「勤」は当時の農耕がいかに困難を伴うものであったか、その労苦にめげず勤励する様をあらわしているように思えます。甲骨文の字例を下にあげてみます。頭に祝祷の器をつけ祭祀にあたる巫女であることを示す「」が後ろ手に縛られ火にかけられている、まさにおぞましい字形です。拙臨は「堇」を書いてから「力」を書いてみました。

」(社):土地の神を祀るための祭壇のこと。「社稷」とは周の時代から行われていた祭祀でしたが、秦漢以降は国家が行う祭祀の中心的な役割を担うようになって、「国家」をあらわす語となりました。「社稷」の語として今回で3回目の登場となります。

「禝」(稷):農耕神を祀るための祭壇。声符の「畟」(しょく)は農耕神の形。この2字は器面が傷んでいて拓影が明瞭ではありません。前例と接写画像を参考にして書くとよいでしょう。

「信」 (中山国篆書)
「堇」 (甲骨文編)

 

戦国中山王圓鼎を習う(64)「卲考成王」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以(憂)勞邦家。含(今)(吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

 

「卲」:声符である「召」は神霊に祈って招くことをいい、それを拝する姿が「卩」(せつ)で、霊威が現れて明らかな意となります。、もとは「昭」と同字です。

「考」:3回目となります。各線のベクトルの調和が美しい造形です。

「成」:2回目です。戈(ほこ)が鋳造され仕上がったときに飾りがつけられた姿です。その飾りの上部に肥点があります。そのやや下に器面の傷みがあって肥点のようにみえますので注意が必要です。

「王」:4回目です。前回触れたばかりですのでそちらを参照してください。

 

戦国中山王圓鼎を習う(63)「先祖桓王」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以(憂)勞邦家。含(今)(吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

 

「先」:2回目です。人の上に主体となる行為を示す足を加えて強調し、「先に行く」ことを表しています。

「祖」:「且」(そ)が声符となります。この「且」は祭祀の際に供える肉を切るためのまな板です。郭沫若はこれを男根としていますが、あまりにも唐突な奇説にすぎます。金文では「且」単字に「又」を加える字例が西周中期の[師虎簋]、[白觶](はくし、觶は飲酒用のカップ)などいくつかありますが、「祖」でも「且」を奉じる手が添えられるものがこの中山国篆書以外でも戦国早期の[陳逆簋]にみられます。なお、「且」の外に「」がつく理由は、構成素が「且」ではなく「俎」を用いているものと考えることができます。「俎」の金文には台脚らしき突起があり、それが変化し、「且」の内部の2画もそれと連動して統一させているものと思われます。

」(桓):声符が「亘」(かん)で「桓」の仮借字です。中山国の先王の一人を指していて文献では「桓王」となっています。どちらが正しいのかを確かめる術を持っていないのが残念です。「亘」の部分は春秋晩期の[洹子孟姜壺]と似た形をしています。中央の横画を2本にしたのは間延びするのを防ぐためと思われます。

「王」:3回目。王の象徴として祭祀に用いられる鉞の形です。今の活字は横画の間隔が等しくなっていますが、上の2本を寄せて書くのが本来の形です。下の横画は鉞の刃の部分にあたりますので、金文では刃身を肥(ゆた)かにしたり曲線にすることがあります。

 

戦国中山王圓鼎を習う(62)「慮昔者吾」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以(憂)勞邦家。含(今)(吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》 “戦国中山王圓鼎を習う(62)「慮昔者吾」” の続きを読む

戦国中山王圓鼎を習う(61)「亡遽惕之」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以(憂)勞邦家。含(今)(吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》 “戦国中山王圓鼎を習う(61)「亡遽惕之」” の続きを読む

戦国中山王圓鼎を習う(60)「而去之遊」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之遊、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以(憂)勞邦家。含(今)(吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き遊ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

 

「而」:4回目。前回のものとは異なり、頂部の1画は入れないパターンです。中の両脚の始めの部分をキュッと締めた後は直立に近い状態で延伸して書きます。

「去」:本来、「去」は人の正面形である「大」と盟誓の言葉を入れる器の蓋を取って無効とした「」(きょ)からなります。訴訟に敗れたものがその自己盟誓の器とともに川に流されるのが「法」、神判に用いた敗訴側の生贄も一緒に流すのが「灋」となります。ところが、中山国の篆書では「」(さい)の形で蓋がついている状態です。さらに中山三器の円壺には「去」の下に「止」を加えた形も見られます。なお、この「」は別に縦長の飯器をあらわす場合もあります。また、「凶」など胸郭をあらわす「凵」(こん)とは別のものです。

「之」:7回目となります。前回(59)のものよりも左の2画がやや傾いているようです。

「遊」:声符である「斿」が氏族の旗を掲げて軍旅にでる様をあらわしていて、右に垂れているのは装飾の吹き流しです。中山三器では他に方壺に1例ありますが、こちらの方が吹き流しを長く垂らしています。