戦国中山王方壺を習う(8)

[ム(以)卿(饗)上帝]   以て上帝に饗し

「ム」(以):耜(すき)の象形で、「」と表記することもあります。「㠯」(※㠯は台?)も同じで、「以」は「ム」(耜)に人を加えたものです。

「卿」(饗):《字通》を引用すると、「(き)の省形+卯。は祭祀や饗宴に用いる盛食の器。卯は二人対坐する形。をはさんで二人対坐し、饗食する形であるから饗宴の意となり、またその礼にあずかる身分のものを卿という。金文は卿の一字を饗宴・北嚮の嚮・公卿の三義に用いる。饗・嚮は卿より分化した字。故郷の郷(鄕)ももと卿と同形の字。おそらく郷党の代表が政治に参加し、饗宴にも与ったのであろう。のち卿・鄕の二字に分化するのは、慣用によるものであろう。」とあります。

「上」:西周以前の古い字形は手のひらの上に指示点を加えたものです。後に上に伸びる縦画が加わりました。

「帝」:帝は脚を交叉させた祭卓です。中山篆の字形の一部は、木を編んだ柵である「用」に作っていますが、もとより「用」に従う字ではありません。しかしながら、郭店楚簡にはこれと同様の形が散見されます。

 

戦国中山王方壺を習う(7)

[可灋可尚]   灋(のり)あるべく尚(つね)あるべからしめ

「可」:木の枝をあらわす(カ)と祝祷の器(サイ)とからなる字。木の枝によって祝祷の器を殴ち、神に承諾を促す様をあらわしています。は一体のものなので、本来であれば筆順は連続されるべきものと思います。

「灋」:「所」を参照すれば明らかですが、中山篆の場合は他の字例と異なり廟扉である「戸」にしたがっている点が特徴的です。一般的な字例の場合、《字通》には「法の正字は灋に作り、水+廌(たい)+去(きよ)。廌は神判に用いる神羊で獬廌(かいたい)、また獬豸(かいち)とよばれる獣の形。去は大+(きよ)の会意字で、大は人、は獄訟のとき自己詛盟した盟誓の器の、蓋(ふた)をとり去った形。敗訴者の盟誓は、虚偽として蓋をとり去って無効とされ、その人(大)と、また獬廌もともに水に投棄され、すべて廃される。金文に「朕(わ)が命を灋(はい)(廃)すること勿(なか)れ」のように、灋を廃の意に用いる。法はその廌を省いた簡略字である」とあります。ただ、去が大(人の正面形)ととからなるという部分については、確かに甲骨文にはその字例もあり、戦国秦の法治富国強兵を行った商鞅の青銅器「方升」や楚簡、秦簡などにしばしばみられるものの、西周の青銅諸器の字形はが多くみられることも事実です。「廌」部の左、巻き上げるような線によって密を尽くす部分はあまりにも繊細なために拓影に反映されない場合がありますので拓の選択には注意が必要です。

「可」:2回目です。

「尚」:廟屋に祝祷の器を置いた形「向」とそこに神気が顕れる様の「八」とからなる字です。「向」は家や宇、安などと同様に、廟屋をあらわすウ冠からなる構造です。なお、神気「八」の下にある小さな画は、こしきから湯気が立ち上る様「曾」(ソウ)の字形にもみられるものです。

戦国中山王方壺を習う(6)

[節于    (インセイ)に節あり         

※祭祀の際の用酒法に節度あらしめ

「節」:声符は卽。竹の節(ふし)をあらわす字。ここでは節度の意。《字通》には「〔鄂君啓節(がくくんけいせつ)〕は楚の懐王六年、鄂君に与えた車節・舟節で、銅製の節であるが、竹節の形に鋳こまれている。〔周礼、秋官、小行人〕に六節の規定があり、道路・門関・都鄙の管節はみな竹符を用いた。符節によってその行為が規定されているので、節度・節義・節操の意となり、また節侯・節奏など、すべて秩序・法度のある意に用いる」とあります。

「于」:《字通》によれば「字形は、曲がった形を作るためのそえ木。また刃の長い曲刀の形。卜文・金文のは、弓にそえ木をそえた形である」とあります。

」(イン):小南一郎氏はこの字を、《詩経》大雅生民など古典にしばしば出てくる「禋祀」にあたり、誠意をもって神を祀ることとしています。また、白川静氏はこれを「天の祭祀」とし、さらに「垔」(イン)は竈と煙の吹き出し口の「窗」とからなる形で、「煙」の初文。「西」の部分は籠の形「西」(セイ)とは別のものであるとしています。

」(セイ):「齊」の字形の下にある二本の横棒は簪を立てる台の形を簡略化したものです。《周禮》天官・酒正には祭祀における用酒の法が述べられていて、「辨五齊之名。一曰泛齊、二曰醴齊、三曰盍齊、四曰経齊、五曰沈齊。」と出てくる「齊」は祭祀に用いる飲み物。はこの「齊」をさします。なお、この後に続けて、「辨三酒之物…」とある「酒」は「齊」とは異なり人が飲むものためのもののようです。

戦国中山王方壺を習う(5)

[鑄爲彝壺] 鋳て彝壺を為(つく)る

「鑄」:中山篆は「金」と「寸」とからなる字形となっています。「寸」が「チュウ」の音を持つことについて、白川静はおそらく「丑」の省形だろうとしていますが、少々無理があるように思えます。「壽」の字形は、西周中期以降になって、下部に「又」(手)が加わるようになりますが、その「又」を残した省形の可能性があるように思えます。この「金+寸」の字形は「壽」を構成素に含む他の一般的な系統とは一線を画すものです。ただ、戦国三晋(晋から分離した趙・魏・韓)の魏国の文字と構成が共通していることが《金文編》で確かめることができます。 ※下に関連資料を添えておきます。

「爲」:右脇の本来渦紋とすべきところが簡略化されています。方壺のもう一つの字例は渦紋ですし、他の中山三器もすべて渦紋なのですが、唯一この字だけが例外となっています。接写画像を確認しても器面の傷などではなさそうです。

「彝」:この字形も、一般的な金文とは異なります。左の羽根を思わせる姿は説文古文の字形に近いものです。右上の糸形は羽交い締めを固定するための糸ですが、羽根から離れてしまったために、この字形からは、本来の鶏を羽交い締めにする様は想像ができません。

「壺」:壺の器と蓋を合わせた全形です。壺の字は中山三器では方壺のみ2例登場します。

《鋳に関する資料》

商周青銅器銘文選
金文編

 

戦国中山王方壺を習う(1)(2)

戦国中山国から出土した代表的な青銅器三器の学びとして、円鼎に次ぐ第2弾となります。

[隹十四年]   隹(こ)れ十四年

[中山王]   中山王(サク・セキ)

中山王方壺(捜狐“金石笔韵 寻源中山”|“中山三器”铭文拓片欣赏より)
中山王方壺拓第一面(“金石笔韵 寻源中山”|“中山三器”铭文拓片欣赏 より)

 

栃木県芸術祭書道部門出品作品「無無明盡」

2022年の栃木県芸術祭(県文化協会主催)書道部門への出品作品です。過日の下野の書展には般若心経から採った「無無明盡」の甲骨文、小篆、中山篆からなる3種を発表しましたが、それに加わる郭店楚簡に取材した拙作です。

無無明盡(郭店楚簡)  80㎜×24㎜

本日、11月6日(日)の13:30からは展覧会場にて入賞者をはじめとする作品の批評会に審査員として臨みます。

 

篆刻入門講座「干支印を彫ってみよう」を開催しました。

去る10月30日、栃木県総合文化センターにおいて、篆刻入門講座「干支印を彫ってみよう」(観星楼書道篆刻研究院主催・栃木県文化協会共催)が催されました。参加者は37名で、他にも見学に訪れた先生方が何名もおられました。来年の干支は「癸卯」です。ここに、講習の資料に載せた校字と印稿例、および完成した参加者の印の一部をご紹介いたします。なお、私の作成した印稿はご自由にお使いいただいて結構です。(著作権は保持しています)

印稿「癸卯」
印稿「卯」
校字
講習会参加者の作品(一部) ※補刀を施してあります

戦国中山王圓鼎を習う(114)「之毋替厥邦」(最終回)

《智爲人臣之宜施。於虖、念之哉。後人其庸々之、毋忘爾邦。昔者呉人并粤。粤人斅備恁、五年復呉、克并之至于含。爾毋大而。毋富而喬。毋衆而囂。邦難人才彷。於虖。子々孫々永定保之、毋竝厥邦。》 76行 469字

《人臣爲るの宜(義)を知るなり。於虖(ああ)、之(これ)を念(おも)へ哉(や)。後人其れ之を庸として用い、爾(なんぢ)の邦を忘るること毋(なか)れ。昔者(むかし)、呉の人、を併せたり。越人、修教備恁し、五年にして呉を覆し、克ちてを併せ、今に至れり。爾(なんぢ)、大なりとして肆(ほしいまま)なること毋れ。富めりとして驕る毋れ。衆なりとして囂(おご)る毋れ吝(隣)邦も親しみ難し。仇人、旁らに在り。於虖(ああ)、之を念へ哉(や)。子々孫々永く之を保し厥(そ)の邦を替(す)つる毋れ

○「之」:24回目(重文を含む)です。

○「毋」:5回目です。

○「竝(並)」(替):中山王円鼎ではこの1例のみです。「立」が2つ、2人が並んで立つ形です。「替」は「すてる・ないがしろにする」意があり、正字は「竝」と「曰」からなり、「並」とは通じています。ここの「毋替」について、小南一郎は、「古典では「勿替」と表現される。例えば「詩」小雅楚茨に「子々孫々、勿替引之」(すつるなくこれをながくせよ))とあるほか、「尚書」康誥の「王若曰、往哉、封、勿替敬典」(てんをけいするをすつるなかれ)など、主君の公式の発言や祝詞の最後に用いられることが多い。」と述べています。

○「」(厥):5回目です。

○「邦」:10回目です。

○「円形巴紋符号」:「邦」字の上にありますが、微妙に左にずれており、「邦」と同じ行ではありません。「邦」を刻んだ後、ここを以て銘文が終了することを示すため、間の空いた余白に配したものと思われます。これと同様に、中山王方壺にも銘文の最後に1つ、円壺では最後の行の隣に上下2つ配しています。円壺に2つ配した理由は、その直ぐ左隣に第1行が始まるために加えた配慮と思われます。句読点は用いることがないわけですが、さすがに、このマークがなければ銘の出だしを見つけることは難しく、その難を避けたものと思われます。その発想にも中山篆の造形美の淵源をみてとることができそうです。