戦国中山王方壺を習う(57)

「逆(於)天下   (上は)天に逆らい、下は

「逆」:声符の「」(ギャク)は向こう側からやってくる人の姿を倒形で表したもの。つまり「大」がが逆さまになったものであるから本来は肥点は必要としないのですが、装飾的に加えている様が接写画像にて確認することができます。

」(於):3回目です。

「天」:3回目です。

「下」:甲骨文は下に向けた掌の下に、その下方であることを示す線を添えた字です。「上」はその反対の構図です。しかし、共に数詞や繰り返し記号と混同されやすいので戦国以降は上下それぞれの方向に縦画を加えるようになります。

戦国中山王方壺を習う(56)

(會)同則(上)」   会同に(歯長せんとす。)則ち上は

」(會):「會」は蓋付きの蒸し器や甑(こしき)の形です。この器の部分を祝祷の器「」(サイ)に替えたのが「合」で、共に蓋と器が合わさることから「あう」意となります。さらに、「會」について、会合などに三々五々集まって出会う場合として甲骨文で表記する「」の形はこの「」と同様のものであり、「會・合・徻・」は互いに通用する関係かと思われます。なお、(44)の「徻」は燕王の名である「子噲」(シカイ)の「噲」として用いられていました。

「同」:酒杯に用いる盤である「凡」(ハン・バン・ボン)と祝祷の器「」(サイ)とからなる字です。会同の儀礼の際は、酒が供せられ神への祈祷が行われました。「凡」と「同」(ドウ)の声系についての関係は詳らかなるに到りませんでした。諸賢のお教えを請う次第です。

「則」:2回目です。

」(上):2回目です。この字は(53)の「庿」で触れたように、方壺ではこのあたりから、字形状の整斉さに乱れを生じたものが出始めますが、特にこの「」は同字(52)と比較して際立っています。ここでは(52)に倣い修正して書いてみました。

 

戦国中山王方壺を習う(55)

(侯)齒(長)(於)」   (諸)侯と、(會同)に歯長せんとす。

」(侯):2回目です。

「齒」:甲骨文は口中の歯が並ぶ形となっていましたが、後になって声符である「止」(シ)が加わりました。中山篆では四角い歯の形が並ぶ様が「臼」(キュウ)の形に譌変しています。「歯長」とはもともと「年長」の意ですが、この次に出てくる「会同」を含めた説明を小南一郎氏は「會同は、「周礼」などの言う所によれば、朝覲(チョウキン)が終わったあと、特別の事件があったときだけ、都の郊外に壇を築いて諸侯たちがそこに集合して天子の命令を聴く儀式。歯長とは、そうした会同の場において、それぞれの家柄や職務による順位にしたがってならぶ位置を定めること。」と述べています。諸侯や家臣が並ぶ序列に関する争い事はよくあることで、後世唐代の顔真卿の争坐位稿にまつわる事件もその一つの例です。

」(長):「長」は髪を長く伸ばすことを許された氏族の長老を指します。甲骨文では杖を持つ形、金文ではこの中山篆も含めて、高齢であることを示す「匕」(カ 屍体の形)がつく形があります。「立」は身分を示す「位」の意を持ちます。中山篆ではこの「」の他にも字の一部を「立」に替えたり加えたりした異体字として「創・發・範・踵」など数例見られます。  

」(於):2回目です。

 

戦国中山王方壺を習う(54)

「而(退)與者(諸)」   退いて諸(侯)と

「而」:3回目です。

」(退):「退」は、盛器である「日」、「ゆく・すすむ」意を持ち足の形「止」の倒形である「夊」(スイ)、更には「辶」とからなり、神前に供えた盛器をさげる様を表す字ですが、中山篆は祝祷を収める器「」(サイ)を加えた構成になっています。

「與」:貴重な象牙一対を両手で挙げている形です。中山篆では両手で挙げる形は兆域図などの簡略体を用いる場合を除き、「弇(エン)・棄・朕・闢」などで見られるように基本的に両手の間に「二」を装飾的に加えています。

「者」(諸):2回目です。

戦国中山王方壺を習う(53)

「天子之庿(廟)」   天子の廟

「天」:2回目です。

「子」:3回目です。

「之」:6回目です。

「庿」(廟):字形の不安定な部分を若干修正して書いてみました。この字は「廟」を「庿」(ビョウ)に通仮させています。しかし、「庿」は[説文]に「廟」の古文として録しているものの、「廟」の声符「朝」(チョウ)とは異なります。「廟」の音が変化したためでしょうか。あるいは「廟」の声は本来はチョウとすべきなのでしょうか。「庿」形の字は「廟」の古文に採られており、その根拠の一つが戦国中山での用例なのかも知れません。《字通》には「〔隷釈〕(※[宋]洪適 撰)所収のものに庿の字はみえず、庿は北魏の〔元徽墓誌〕、隋の〔孔神通墓誌〕などに至ってみえる。」とあります。中山国遺址の発見は1974年ですから宋代の〔隷釈〕に中山方壺のこの用例が載っていないのも当然ではありますが、この戦国中山国においてすでに使用されていた「庿」形の字は「廟」の省形による異体字とみるべきなのかもしれません。「廟」の字は甲骨文にみると、まだ月が残る時刻、草原のかなたに日が昇る構成となっています。仮に「庿」を「朝」の要となる「艸・日・月」の「月」を略し、「日」が変化した異体字と推測するのは乱暴でしょうか。現に、中山篆では「昔」字において、「日」を「田」に変化させている例があるのです。この推論は中山方壺のこの「庿」(廟)字あたりからみられる、箍(たが)が弛みバランスを微妙に欠いた字形がいくつか(この後(56)の「」(上)など)混じるようになる点や円壺が冒頭のみ倉卒で稚拙な刻になっている点、兆域図などでは簡略体を用いている点、そして「庿」は古い時代での用例がないという背景を踏まえるとその可能性はゼロではない様な気がします。

戦国中山王方壺を習う(52)

(使)(上)勤(覲)(於)」   (将に)上をして(天子の廟)に覲せしめ、

」(使):3回目です。ここは使役の動詞としての用法と考えられます。

」(上):「尚」と「上」は同音で通じ合う関係で、合文のように構成された形です。この部分は識者の間で解釈に意見の相違がみられますが、ここではこの後に出てくる文と対句的な関係にあるとみて「上」(かみ)の意としておきます。なお、同器方壺には「上」や「尚」をそれぞれ通常の字形で表したものがあり、何故ここだけ合文の様な字形を使ったのか、なにか意図があるのではないか感じてしまいます。また、この後には趣が異なる倉卒な刻の同字がみられます。そのまるで慌てているかのような仕事にも背景に特別な事情があったことを窺わせます。

「勤」(覲):「」(キン)と「力」(耒 すき)からなる字。朝見の意を持つ「覲」(キン まみえる)に通仮させています。なお、「勤」の字形は小篆でも「」の下部は「土」になっていますが、元は「」(カン)と「火」からなり、頭に祝祷の器を載せ後ろ手に縛られた巫女が焚かれている様です。

」(於):「於」は主に烏による鳥害を避けるためにその屍体を架けて晒した形とされていますが、中山篆は「烏」ではなく「鳥」の形にしています。晒され羽根が開いた一部が「人」に変化した姿がこの中山篆に残っています。ちなみに、「烏」が「鳥」よりも一画少ないのは目の部分にあたりますが、黒い体で目の位置がわかりにくいことをあらわしています。

戦国中山王方壺を習う(51)

「外之則(将)」   之を外にしては則ち将に

「外」:「夕」は「月」。「卜」は骨占いの際に入るひびの形で占う意。古代、占いは通常は早朝に行うものであって、夕方に卜する(占う)ことは常道から外れていることをいう。ただ、「夕」は肉であって肉を削る意とする解釈もあります。

「之」:5回目です。

「則」:正字は「」です。鼎に銘を刻むことを表す字で、鼎銘は末永く規範とすることを記したものであることから法則の意を持ちます。この「則」字は中山器ではこの方壺に6例あり、そのうち一つだけは「刃」に従っています。「刀」と「刃」あるいは「刅」(ソウ 創)を互用することは中山国をはじめ春秋以降の金文においてままあることです。

」(将):この字は「醤」の異体字で、「将」に通じています。「将」の字について、《字通》には「旧字は將に作り、爿(ショウ)+肉+寸。爿は足のある几(き)(机)の形で、その上に肉をおいて奨(すす)め、神に供える。軍事には、将軍が軍祭の胙肉(そにく)を奉じて行動した。その胙肉を(シ)といい、師の初文。帥(そつ)もその形に従う。これを以ていえば、將とはその胙肉を携えて、軍を率いる人である。」とあります。「醤」はそれに加えて酒を供える形です。

戦国中山王方壺を習う(50)

「王之祭祀」  (先)王の祭祀

「王」:4回目です。

「之」:同じく4回目です。

「祭」:神に供える肉「月」と手「又」、祭卓「示」とからなる字ですが、一般的な金文の配置と異なります。旁の肉を上にしたのは「有」と同形になることを避けるためと長脚を活かすためかと思われますが、造形上の秀でた感性を感じます。

「祀」:「巳」は蛇の形で自然神を祀る様を表す字です。方壺の(9)で先出した字は「巳」の腰に髭状の2つの線がつきますが、ここでは装飾的に渦紋を2つ加えていて、しかも向きが変わっていてとても興味をひきます。中山篆での渦紋は通常、巻き込むタイプと字の外側に放射状に展開した尾を持つタイプなのですが、この場合は尾を字の内側に向けているというべきか、あるいは斜め上に巻き上げるような形状をしています。このタイプは他には「」(位)の「胃」の腰部に見られるのみです。

戦国中山王方壺を習う(49)

(業)乏其先」  業を(絶ち)、其の先(王の祭祀を)乏ひ

」(業):「菐」の部分を構成する「」(ボク)は土木工事でいわゆる版築に用いるもの。空気を抜きながら土を固めるために先が櫛状に突起した道具です。これを両手で持つ形が「菐」で、「」は修祓のため祝禱の器「」がそれに加えられた形をしています。

「乏」:ここでは「うしなう」意となります。「乏」を白川静氏は仰向けになった屍体であるとし、また、字形からは「正」との近似性を認めることができます。そのことに関しては、「乏」と同音で、同様に屈葬の屍体を表したものに「亡」があり、その用例に「止」と近いもの(克鼎)があることからの孳乳(派生)かと思われます。なお、「乏」の金文は中山器以外での用例が知られておらず、同《兆域図》には略体があります。

「其」:4回目です。

「先」:2回目です。

戦国中山王方壺を習う(48)

(絶)邵(召)公之」  召公の(業を)絶ち

」(絶):「」(ゼツ)はこのように糸束を刀によって断絶する形です。染糸が弱って切れる様を表すと「絶」となります。「」にはすでに「刀」が入っていますが、この反文と「斤」(おの)によって構成される字は「斷」となります。

「邵」(召):声符の「召」は祝禱によって天より人の姿をした霊が降下する形。邑(阝)に従う場合は主に地名に関する場合ですが、ここでは周建国の際の功臣で燕の地に封ぜられた召公奭(ショウコウセキ)のことです。戦国の燕が周初の燕と血脈が繋がっていたことを示す記述です。

「公」:宮廷の儀式が行われる壁に囲まれた場所を示す形。「ム」の部分は四角形で区域を示す形の他、甲骨文に祝禱を納める器の形「」もあります。中山篆の形は小篆よりも原初の形に近いものです。

「之」:3回目です。