「思離羣」3種(2)楚簡

今日は「思離羣」3種の2作目。楚簡を素材にした表現です。放射するベクトルを生かすため辺郭を用いず、楚簡そのもののが持つ美しさを追求したものです。もう少し線を削いで瀟洒にしても良い気がしています。

「思離羣」(2) 78㎜×29㎜

「戦国中山篆千字文考」  第48回下野の書展出品作

2023年8月30日(水)~9月4日 (月) までの6日間、 FKDショッピングモール宇都宮インターパーク店を会場にして第48回下野の書展が開催されました。今回は、大作当番として近年研究テーマとしてきた中山篆による千字文揮毫に挑んだ作品です。作品題名は「戦国中山篆千字文考」です。

「戦国中山篆千字文考」作品解説

中山国について
中山国は、春秋戦国時代、白狄族が南下して現在の河北省中南部一帯に建てた国です。春秋左氏傳に「中山」の記載があるのがB.C.506ですから、建国はそれ以前ということになります。B.C.409に魏が中山を伐ちますが、B.C.380ころに再興します。しかし、B.C.296 には趙によって再び滅ぼされてしまいます。中興の前後合わせておよそ180年余ですが、建国から最終的な滅亡まではおよそ210年余ということになります。

中山篆について
西周まで、書体がある程度統一されていた文字は、周王室の弱体化による諸国乱立と相俟って、各国の文字は独自の様相を帯びるようになっていきます。その中で、ひときわ異彩を放つのが中山篆です。一見、装飾性が強いように見えますが、他の周辺諸国と比べて殷から西周への本質的な文字構造の原理をしっかりと継承している点が特筆されます。その造形美は、秦篆を元にした小篆に比べてもなんら遜色を帯びるものではありません。ただ、残念なことは、中山諸器に遺された文字総数2458字(重文・合文を含む)のうち、単字は505字で、方壺(450、重3合1)、円鼎(469、重10合2)、円壺(205、重5合2)の中でも整斉なもの1035字に限れば、単字はわずか410から420程度にしか過ぎないということです。しかも今回の千字文中に求めるとなると、さらに210程度にまで制約されてしまいます。

今回の作品「戦国中山篆千字文考」について
まず、中山王器を代表する方壺、円鼎の全臨から着手しました。円壺については59行のうち最初から22行目までが稚拙な工技で結体が乱れていることと圏足部が簡略体となるという三体混在する特異な器物であるため、その研究を含め別の機会にまわすことにしました。次にそれら各文字について、字形の構造と字源を、説文解字注および甲骨文、金文、楚簡、古璽などの文字資料との比較をしながら検証する作業に取り組みました。これは私のフェイスブックやホームページに報告してあります。さらに中山篆による千字文の揮毫のために、遺されていないおよそ790の字形を推測して復元する作業に進みましたが、有用な資料が少ないこと、説文解字そのものにも誤りや恣意的解釈があること、千字文にも異本があること、そもそも千字文は梁時代に成立したもので篆書にたどれない新字があること、さらには中山篆は同声異義の字を通仮させることが多いことなどの障碍などによって困難を極めました。今回発表する作品は、これらの作業を経て復元した下書きをもとに清書したものです。併せて、千字文中の好句「守真志満」を復元した中山篆で刻してみました。ご教正よろしくお願いいたします。

1~3
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なお、この作品についてyoutube に動画を投稿していますので、ご覧いただければ幸いです。https://youtu.be/4qBJ6-N0i70

また、中国の放送局CCTV制作の《中山国》第6集 流韵にも後半36分頃から自宅まで取材に来られた際の映像が収められています。

戦国中山王方壺を習う(112)

「亡彊(疆)   疆り亡からんことを。

「亡」:3回目です。拓によっては縦画に肥点があるように見えるものがありますが、他の字例ではほぼ全て肥点がないといえます。造形的には中山篆特有の表現に通じて違和感はないのですが、器面の接写画像によると、明確に存在が確認できるかどうかは微妙といったところです。ここでは「なし」の義となります。

「彊」:2回目です。「かぎり・さかい」の意の場合は「疆」とするべきですが、共に境界の意として、(70)では「土」が旁の下に付け加えられているのに対し、(84)では「強」の意になる「土」を略した「彊」にしています。これも中山篆の選字の際にみられる音通による鷹揚性でしょうか。

中山方壺銘文考観(完)

戦国中山王方壺を習う(111)

「其永保用   其れ永く保ちて、用って

「其」:9回目です。

「永」:水脈が合わさるところの形です。この左右対称の反文にしたのが、逆に流れが分岐する様をあらわす「」となります。ただ、甲骨文をみると、川の合流点のものと道の交差点の2つのものがあり、川の場合は、水を示すいくつかの点が添えられ区別しているようにも見えます。

「保」:[説文]古文にある形に拠る字形です。「俘」に近いものですが、生まれたばかりの「子」に霊衣として褓(むつき)が添えられているかどうかの違いがあります。この「保」を「寶」の仮借とする説もありますが、貴重なものとして永く「たもつ」と解釈して差し支えないと思います。

「用」:3回目です。金文での慣用表現で「もって」と釈きます。

 

戦国中山王方壺を習う(110)

「子孫之孫   (子の)子、孫の孫、

「子」:8回目です。

「孫」:2回目です。糸かせの端を結ぶ形にしないのは既に甲骨文にみられます。西周金文では「糸」の下部にあたるとじ目のある形が多くなりますが、この中山諸器の様に戦国期になると再びそれを省くものが、金文・楚簡などで主流となります。

「之」:16回目です。

「孫」:3回目です。

戦国中山王方壺を習う(109)

「可(長)子之   (隹れ義は)長かるべし。子の(子)、

「可」:3回目です。

」(長):中山篆では同じ「長」でも意味の違いを補足する別の構成素を加え書き分けています。この方壺では少長の意で使うときに「」、長久の意で使うときは「」にしています。なお、「」の「長」の部分には屍体である「匕」(カ)を入れていますが、「」の場合は省略しています。長久の「」は中山諸器でこれが唯一の用例となります。

「子」:7回目です。

「之」:15回目です。

戦国中山王方壺を習う(108)

(附)民隹宜(義)   (隹れ徳は)民を附さしめ、隹れ義は

」(附):2回目です。

「民」:3回目です。円壺には目の内部に2点を加えたり肥点を逆V字形にした異体字例があります。目の内部に中山篆の「母」のように2点加えるのは三国時代魏の三体石経にも共通するものです。

「隹」:7回目です。

「宜」(義):3回目です。両脚尾が短い拓がありますが、線の彫りが浅いためで接写画像では他の字と同様に延伸が確認できます。なお、円壺では高く盛られた肉(肉月)が一つのみの簡略体となっています。