「獨泛扁舟」 (原采蘋詩「若津別廉叔」)

「獨泛扁舟」   独り扁舟を泛(うか)ぶ 

原采蘋(はらさいひん)(1798~1859)は、江馬細香・梁川紅蘭らとならぶ江戸後期の女流詩人。好酒、男装、帯刀で遊歴し、生涯独身を貫いています。江戸後期には、彼女を含め私が少なからず惹かれている三人の才女がいます。江馬細香の存在は、篆刻にも造詣が深かった頼山陽に興味を抱きその書幅や印譜を蒐集した頃に知りました。頼山陽が師弟の規を越えて彼女に強く惹かれていた姿に、私も次第に影響を受けるようになりました。大田垣蓮月はその艶やかで個性的な仮名に惹かれています。幸いにも、彼女が使用していたと思われる優雅な扇面が我が拙齋に帰しています。

今回紹介する印「獨泛扁舟」は原采蘋が詠んだ詩からとったもので、今の自分の心境に沁み入る句です。扁舟とは一艘(そう)の小さな舟のこと。原采蘋がいよいよ一人旅を始めたとき、広瀬淡窓の門下にあった和田廉叔のもとにしばらく滞在するのですが、「若津別廉叔」は若津港(故郷筑前の港)で和田廉叔と別れる時に詠んだもの。彼女の自筆本『西遊日歴』(晩年、母の病床を見舞うために江戸から帰郷した際の約2年間に及ぶ九州各地の遊歴記)の冒頭においていて、それは彼女の並々ならぬ覚悟を象徴する存在として位置づけていたように感じます。

「若津別廉叔」   若津にて和田廉叔に別る
徒惜解携到海灣   徒だ惜む 解きて携へ 海灣に到る
相看無語別願酸   相看て語無く 別願の酸
欲繡斯文豈容易   斯文を繡はんと欲すは、豈容易ならんや
獨泛扁舟渡碧瀾   獨り扁舟を泛べて碧瀾を渡る

※ 原采蘋に関しては、小谷喜久江「遊歴の漢詩人原采蘋の生涯と詩」            ― 孝と自我の狭間で ― を参考にさせていただきました。大変な労著で敬服に値する論文です。詳細に調べ上げた資料群を伴い、原采蘋の人間的魅力に迫る内容は、彼女をして主人公とするドラマ映画化を待望させるほどです。

 

書体は馬王堆帛書を基調としながらも、馬王堆に不足気味な躍動感を加味して表現しました。

獨泛扁舟
54㎜×48㎜

一字印「明」

今日ご覧いただくのも一字印。主に少字数の作品を発表されている書作家先生からのご依頼です。「明」は殷代甲骨文のフォルムを基調にして表現しました。「明」は本来、「朙」であって偏に当たる部分「囧(けい)」は竪穴式住居の窓を表しています。また、「窓」は正字が「窗」で、「朙」の偏「囧(けい)」と同様に「囱(そう)」が窓の形を表しています。

『字通』(白川静)によれば、「黄土層の地帯では地下に居室を作ることが多く、中央に方坑、その四方に横穴式の居室を作る。窓は方坑に面する一面のみで、そこから光をとる。光の入る所が神を迎えるところであった。この方坑の亞(亜)字形が明堂や墓坑の原型をなすものであったと考えられる。」とあります。

この一字印「明」は、月の光が窓に差し込む構図をイメージした作品です。

「明」
35㎜×35㎜
ヤオトン(中国・陝西省乾県)          大和ハウス工業(株)HPより

現代美術作家の雅印2 「裕」

昨日に続き現代美術作家の雅印をご紹介します。今回は私の友人でもある先生からのご依頼によるもので、「裕」一字印、書体は金文、大きさは25㎜角です。

「谷」の字形には二系あり、一つは谿谷の谷(こく)。谷の入口を表し、左右から迫る様を表す部分と谷口が低く∨字形に狭まった様を表す部分からなります。もう一つは、この「裕」に含む「谷」(よう)。先人の霊が彷彿としてその形容をあらわす様で、神気の現れる様を表す部分と白川漢字学の核心ともいえる祝詞を収める器「さい」から構成されています。「裕」とは衣裳に神気が纏う様を表している字です。

今回のデザインでこだわった点は、シンメトリックに近い字形に変化と躍動感を加えること、そして固定観念に囚われない辺縁(周囲の枠)の文字との一体化です。

雅印「裕」
25㎜×25㎜

 

現代美術作家の雅印 「卓」

今回ご紹介する雅印は、現代美術界でご活躍中の先生からご依頼の「卓」一字印。大きさは18㎜角です。

「卓」は大きめの匙とされています。この天星観楚簡や包山楚簡から馬王堆帛書や漢代隷書への変遷が穏やかである一方、周代金文から楚簡への変遷経緯にはなお不明な部分があります。

今回は依頼氏が既に所有されている印の書体(小篆)とは異なるものが良いと判断し、楚簡の中でも湖北省荊州の天星観楚墓より発見されたものを採用しました。天星観については、2012年に東京国立博物館で開催された特別展「中国 王朝の至宝」に展示された「羽人」や「虎座鳳凰架鼓」などが同墓出土品として知られており、文字造形につながる高い工芸技術と美意識を髣髴とさせます。

「卓」 文字は天星観から出土した楚簡(18㎜×18㎜)
天星観二号墓出土「羽人」像              (東京国立博物館HPより転載)
天星観二号墓出土「虎座鳳凰架鼓」            (東京国立博物館HPより転載)

 

郷土で育てる書文化「黄梅寺第四世光雲和尚壽藏碑」

5月1日に催された、下野市書道連盟講話会のご報告です。私の居住地である栃木県下野市には、江戸後期の儒学者である亀田鵬齋の書になる「黄梅寺第四世光雲和尚壽藏碑」がその廃寺跡に人知れず遺されています。今回の講話会ではこの碑について講師を担当しました。

 郷土に遺された碑石に関しては、意外に地元の書道愛好者が知らないという現状があるように思います。書文化啓蒙に関するテーマの一つとして早急に取り組むべきものです。なぜなら、その殆どが雨風に晒され、日々劣化の一途を辿っているからです。

講話会で使用したパワーポイント資料を紹介します。

令和4年度講話会(「郷土で育てる書文化」黄梅寺第四世光雲和尚壽藏碑)

図象誕霊 (殷代図象による曼陀羅)

旧作「図象誕霊」(殷代図象による曼陀羅)です。

殷代の図象には文字の体裁を備える以前にあって、例えば氏族を表す徽章として用いられていたとされるものがあり、その豊かな造形は人を惹きつけて離さない魅力に満たされています。拙作はその図象群によって金文の世界を曼陀羅に見立てて表現したもの。図象で構成する作品は、すでに先師小林斗盦や青山杉雨の作品がよく知られていますが、私の作品はそれらに触発されて制作したものです。

「図象誕霊」 殷代図象による曼陀羅
74㎜×74㎜
小林斗盦「臨殷代図象文字」
青山杉雨「図象文字集成防人の図」奥羽大学青山杉雨記念館蔵

「天平の桜歌会」イベントのご案内

私の地元である栃木県下野市は、2006年に旧国分寺町・旧南河内町・旧石橋町が合併して生まれた市です。ここは、かつて「国分寺」「国分尼寺」「薬師寺」そして日本全国でもわずか3箇所に限られた「戒壇」があったことで知られ、飛鳥・白鳳・天平にまたがる時代、東国の地にあって、文化盛栄を誇った地です。

来る3月20日(日)、国分寺跡の「天平の丘公園」にて「天平の桜歌会」イベントが開催されます。私も市からの依頼を受け、「一書一会」というワークショップを担当することになりました。ご興味がある方はどうぞお出かけください。

私が担当するワークショップでは、記念の「御朱印札」を販売したり、自分でオリジナルのものを書いて制作したりします。ここにご紹介するのは、私がデザインしたものです。下野市は愛称として「東の飛鳥」を使用していますので、中央の背景に篆書の「東」、その上には鳳凰が翼を広げた姿をイメージした「飛鳥」を篆書で刻し配しました。実行委員会の印も私が刻したものです。なお、中央を空けたものも準備し、来場者に好きな言葉を書いていただこうとも考えております。そこに捺すいわゆる「寺印」として、今回新たに下野市の公認による古印風「下野国分寺印」も刻しました。あわせてご覧いただければ幸いです。

天平の桜歌会
記念御朱印札

天平之桜歌会実行委員会之印
30㎜×30㎜
飛鳥
70㎜×40㎜
下野国分寺印(古印風)
49㎜×49㎜

「必須遊心境物散逸懐抱」『性霊集』より

「必須遊心境物散逸懐抱」 『性霊集』巻3「勅賜屏風書了即献表 并詩」より

必ず須く心を境物に遊ばして、懐抱を散逸す

空海の漢詩文集『性霊集』は正式な名称を『遍照発揮性霊集』といい、弟子の真済が編纂したものです。

さて、この中に出てくる「境物」をどのように解釈すればよいのだろうか。単純に「外界の物」としてよいのだろうか。「境」の字について、『字通』(白川静)には「声符は竟(きょう)。竟は言を以て神に祈り、その感応として「音なひ」(※音によって認知される気配、訪ひ[星齋注])のあらわれる意で、これによって祈りが終わり成就する。ゆえに竟は終竟、場所的に移していえば、領分の終わるところ、すなわち境界の意となる。転じて一定の状態にあることをいう。」とあります。また、京都西山短期大学教授江藤高志氏は「空海の詩文における「境」の理念」において、「空海はこの「境」という言葉を区切りや地域を表す一般の意味と認識の対象世界を表す仏教語の意味とに、『性霊集』において使い分けている。」と述べています。空海は唐より帰朝する際に盛唐の詩人王昌齢の『詩格』を将来していますが、そこには「境」を既存の『懐風藻』や『万葉集』にはみられない新たな文学理念、つまり「心」と「象」との結びつきに焦点をあて、詩文を書くための着想を得ようと心を静めてゆき、対象とする深奥を「境」として、心に描き出そうとすることが重要だとする主張として取り上げていて、しかもそれは仏教思想に基づいたものであるとしています。つまり『性霊集』はその「境」の影響がみられることを前提として読み解かなければならないことがわかります。

「必須遊心境物散逸懐抱」は、先の江藤高志氏が指摘するように、『詩格』の『文鏡秘府論』南巻にある「須放情却寛之、令境生」(須く情を放にして却って之を寛やかにし、境をして生ぜしむべし)に相通じるもので、筆論として学書に臨む姿勢ついて論じた部分です。

「境物」とは、「万物の深奥に至る境地」などと勝手に解釈しての奏刀拙作です。

「必須遊心境物散逸懐抱」『性霊集』
40㎜×40㎜

「読書坐雲石 鼓琴雑松風」

元末詩人 葉顒(ようぎょう)(1300~1374)「題松雲齋十五韻」より

読みは「書を読みて雲石に坐し、琴を鼓して松風にまじわる」 意味は「山間の石上に坐して書を読み、松風に和して琴を奏でる」となるでしょうか。

中国の資料によれば、葉顒は字を景南といい,金華(今の浙江省)の人。終生、隱居して世に出ず,城山の東隅に庵を結んだ文人とされています。葉顒が詠んだ「題松雲齋十五韻」には“讀書坐雲石,鼓琴雜松風。無往不自得,深喜世慮空”とあり、まさに悠悠恬澹として隠遁する生き様をそのまま詩に賦しています。(※宋代の葉顒(字 子昂)とは別人)

今回の刀痕は、章法の推敲から足りずお恥ずかしい限りのものですが、印文に映える羨ましいほどの文人風景に惹かれての戯れです。

読書坐雲石 鼓琴雑松風
35㎜×35㎜

 

「北辰居其所而衆星共之」《論語》為政篇

北辰居其所而衆星共之
63㎜×48㎜
郭店などの楚簡に取材

私が開設している「観星楼書道篆刻研究院」は「観星」の印影をロゴとして使っています。書体は西周時代の金文体です。

觀星 34㎜×34㎜

論語為政篇には「子曰 為政以徳 譬如北辰居其所 而衆星共之。」(読み:子曰く、政を為すに徳を以てするは、たとへば北辰其の所に居りて、衆星の之にむかふが如し、と。)とあります。天空遙か、取り巻く衆星の中心にあってその立ち位置を忽(ゆるが)せにせず、常に光を発し続ける北極星は航海の重要な指標としても知られています。この北極星を核とした星列が北斗七星です。「斗」は酒聖斗庵先生、「七星」は門人共々七賢を想起させます。先生は主催する研究会の名称を「北斗文会」と銘じましたが、今でもその名称からは先生の強い自負が伝わってきます。

私が刻した「観星」でいう星とはその北極星のことであり、また、品格を有す先賢古典群、そしてかつて師事した巨星ともいうべき小林斗盦先生、白川静先生両先師のことを指しています。とりわけ両先師の教えやその真を追求する揺るぎない姿勢から学んだ多くのことを常にこの小さな心の中心に据え、これからも自分の戒めにしていこうとかんがえています。

先師小林斗盦先生は、論語為政篇にある「北辰居其所而衆星共之」を1986年に刻されています。側款によれば、家族が集う古希の祝宴の後、醉郷醒めやらぬまま帰路につき、室に入りて北望、興を発して奏刀されたとあります。この印は、2016年11月から12月まで東京国立博物館東洋館にて開催された「生誕百年記念 小林斗盦 篆刻の軌跡ー印の世界と中国書画コレクションー」展に出陳されたもので、格調高い鑿印の刻風と精緻な側款が映える名品です。これも私にとっては輝く「星」。今回は畏れを弁えずに拙作と並べ飾らせていただきました。幸運にも、今この宝印は拙齋の賓客となっています。

 

小林斗盦刻「北辰居其所而衆星共之」 25㎜×24㎜