戦国中山王圓鼎を習う(15)「惑於子之」

「惑」:或(わく)が声符。或には限定、例外の意があり、疑い惑う意があります。説文には「亂るるなり」とあって、惑乱することをいう字です。字形は頭部を下げ上部に広く空間をとって右上に伸びるベクトルを強調し、心の終画との協調によって大きな弧を演出します。

「於」:頻出する字で円鼎では5回目です。頭部をコンパクトに小顔にしています。

「子」:右に突き出す腰の位置に注意します。方向を変えるのでいわゆる転折の用筆と同様に少し筆を上げて転向させれば側筆を免れます。

「之」:横画の始筆と左の縦画の位置関係と中央の接点の位置に注意します。

 

戦国中山王圓鼎を習う(14)「勿矣猷粯」

「勿」:字通では、「弓体に呪飾をつけた形。その字の初形は、弓弦の部分を断続したもので、弾弦の象を示すものかと思われる。すなわち弾がい(祟りをもたらす獣を撃って邪霊を追い出す儀式)を行う意で、これによって邪悪を祓うものであるから、禁止の意となる。」としています。また、説文は氏族標識の旗を表すとしているのに対し、「卜文の字形は弓体を主とする形にみえ、金文の字形は、耒(すき)で土を撥(は)ねる形に作り、字形に異同がある。」としています。第1画は天上より垂直におろすようにして書きます。

「矣」:厶(し)と矢からなるとされています。厶の初形は耜(すき)の旁の部分(し)で耜の初文。耜に矢を加えて清め祓う意です。しかし、耜をあらわす厶(し)の部分は、二つのものがまとわる様である「丩」(きょう)の形と同じにしています。ちなみに、「句」の「勹」(ほう)の部分は人が身をかがめている象とされているのですが、甲骨、金文の字形を見る限り二つのものがからみまとわる形で、「丩」と同形であるように思えます。

「猷」:猷は声符の酋(しゅう・ゆう 酒樽の上に酒気が出る様)に犬牲をそえた形で、神を祀り、神意に謀(はか)る意です。偏旁から構成されますので、脚を持つ旁を伸ばし、偏の下を空けます。

「粯」:米と見からなる字ですが、「迷」の意で用いられています。くらむ意を持つ「眯」(べい)の異体字とみる見解もあります。これも偏旁からなる字です。「米」の縦画を強調する判断をしています。「見」の脚を強調するとどうなるか試されると良いと思います。

 

 

戦国中山王圓鼎を習う(13)「於天下之」

「於」:円鼎では4度目の登場。第1画の終筆での巻き上げは中山国篆書の特徴の一つです。2つの脚の間が字の中心になる意識で書くとまとまります。

「天」:人の正面立形の頭の部分を強調した形です。小篆の形の頭部の上に短い横画を添えます。両脚の分岐する位置に気をつけます。

「下」:殷周の古い字形は、手の平をふせて、その下に点を加え、下方を指示する象になっていますが、後に掌から下方に伸びる縦線が加わりました。中山国篆書の「天」の装飾的な繁画と同様に、上部横画の上に短い横画を加えるものが、戦国期の諸侯曾国の曽侯乙鐘に見られます。

「之」:湾曲する左の2画が上に向かって伸びるように書きます。

 

戦国中山王圓鼎を習う(12)「爲人宗閈」

「爲」:字通によれば、「象+手。説文三下に「母猴なり」とし、猴(さる)の象形とするが、卜文の字形に明らかなように、手で象を使役する形。象の力によって、土木などの工事をなす意。」とあります。

「人」:既に出てきました。脚部は垂直に下部を太くしないように書きます。

「宗」:字通によると、「宀(べん)+示。宀は廟屋。示は祭卓の形。説文七下に「尊祖の廟なり」とあり、宗廟のあるところ、またその祭る祖宗をいう。」とあります。祭卓の脚を2本略して書きます。

「閈」:字通を引用すると、声符は干(かん)。干は盾。防備用の門、説文十二上に「門なり」とし、「汝南の平輿にては里門を閈と曰ふ」とあり、古くは里門をいう語であったようです。「宗」と同様に左右対称に書きます。

戦国中山王圓鼎を習う(11)「弇夫悟長」

「弇」:合と両手の廾(きよう)からなり、「深い、ひろい」意を持ちます。説文の「蓋なり、合と廾の会意」としている点について、白川静は小篆の字形によって疑問を呈し、その甲骨文の字形から考えると婦人の分娩の形であるとしています。

「夫」:人の正面形である「大」と髪飾りの簪(かんざし)からなる字。男子の正装の姿ですが、それに対して女子が髪飾りをした形が「妻」となります。最終画の斜画の始筆は接点からではなく、少し上部からにすることがポイントです。

「悟」:字形は「豸」(たい)と「吾」からなります。この「豸」は「墜(地)」にも含まれています。腰のあたりにある渦巻き状の飾りは極めて細い刻線であるため拓影に顕れないことがありますので拓から習う際は注意が必要です。

「長」:「立」と「長」からなる字です。「長」は長髪が許された長老の姿。「立」が加えられた字例は戦国時代の韓の編鐘として知られる「□(厂+驫)羌鐘」(ひょうきょうしょう)にも見ることができます。「立」と「長」を緊密にして書きます。

戦国中山王圓鼎を習う(10)「君子徻睿」

「君」:聖職者の杖である「尹」と祝祷を収める器「さい」からなる字。中山国の篆書は左右対称になっていますが、本来は手に杖を持つ形です。

「子」:おさなごの形。古い字形は頭を大きくしていますが、ここでは八頭身美人のように小さく収め脚の長さを強調しています。

「徻」:子徻とは戦国期の燕王「噲」(かい)(在位 前320~前314)の名で、文献には「噲」の字を用いています。「會」は甑(こしき)に蓋をした形。春秋晩期の沇児鐘(えんじしょう)銘には「會」と「しんにょう」からなる字を「會」の意で用いています。このように、この時代はおおらかな通用のほか省画や変形そして装飾がみられます。「會」の下部は旁の中心を揃うことよりも偏旁の間隔が空いてしまうことを避けたようです。しかし、方壺の2例の通りに旁の中心を整えるほうが良いと思います。

「睿」:「睿」と「見」からなっていますが、「睿」や「叡」の異体字と思われます。「深い・あきらか」の意を持ちます。なお、字通では、「睿」の上部を「面を覆うている帽飾」としていますが、この字形を見れば明らかなように、本器銘の後半に出てくる「死」を構成し残骨を表す「歺」(がつ)と同源であるとみてよいと思います。

 

戦国中山王圓鼎を習う(9)「淵昔者郾」

「淵」:旁部が声符の(えん)。説文に「回(めぐ)る水なり」とあり、旁部は水の回流する形で、淵の初文です。「淵」は水の流れが複雑に交錯する様であるのに対し、崖の下から水が一方向に流れ落ちる場合が「泉」です。金文の字形では、これを上下対称にしたものが「淵」となっています。水流の一画に渦を巻く表現は「壽」に含まれる「疇」と似ています。

「昔」:肉を薄く切って陽に晒し乾肉を作っている様です。甲骨文や金文では肉が乾燥してしわしわになり波打っている姿で、2~3枚が重なるように並べられています。下の部分は「田」に変わっていますが、本来「日」で乾燥するまでの時間の経過を暗示させるものです。

「者」:木の枝を交叉させたものと土で祝祷を収めた器を覆う形。居住地の周りに外部からの邪霊の侵入を防ぐために土中に埋めるものです。そのようにして守られた邑が「都」です。中山国の篆書は「止」の形に変化しています。

「郾」:「燕」は周から春秋、戦国と命脈を保った国で、金文では音通により「郾」の字形を使っています。「郾」の偏部は、秘匿の場所において女子に魂振り(神気によって霊魂の活力を高めるための儀式)を行う様で、「晏」と同系の文字。中山国の篆書では、円鼎や方壺では玉(日)部を変化させて「日」には見えませんが、胤嗣円壺では「日」の形をとどめています。

 

戦国中山王圓鼎を習う(8)「施寧溺於」

隹十四年、中山王作鼑。于銘曰、於虖、語不(發)哉。寡人聞之。蒦(與)其汋(溺)於人施、寧汋於淵。》

隹(こ)れ、十四年、中山王□(せき)、鼎を作る。銘に曰く、於虖(ああ)、語も□(悖・もとら)ざる哉(かな)。寡人之を聞けり。其の人に汋(おぼ)れんよりは、寧ろ淵に汋れよと。》

「施」:諸氏は「也」の意としているものの旃(せん)の形をあてています。その理由を、李学勤氏の指摘である、漢代の儒者である戴徳が礼に関する古代文献を整理した『大戴礼記』武王踐阼篇の周の武王が万世に伝わる格言から自戒の銘を作ったとする件に、「盥盤之銘曰、与其溺於人也、寧溺於淵。溺於淵、猶可游也。溺於人、不可救也。(盥盤(かんばん)の銘に曰わく、其の人に溺れん与(より)は、寧ろ淵に溺れよ。淵に溺るるは、猶ほ游(およ)ぐ可きなり。人に溺るうは、救ふ可からざるなり)」によるところとしています。しかし、何故「也」に「旃」をあてたのか。適するものがないため近い字形をあてたと思いますが、中の部分は「旃」を構成する「冉」でも「丹」でもありません。むしろ「它」の変形とみるべきで、私は「」であると思います。「施」と「也」は音通するのです。 ちなみに、「施」の部首は「かたへん」となっていますが、屍を打つ象である「放」などとは異なり、旗竿の象を含む字ですから、部首はとして「はた」などの名称とするべきではないかと思います。

「寧」:字通によれば、宀(べん)+心+皿(べい)、丂(こう)からなる字で、丂(こう)がつかない寍も同字であるとしています。宀は廟所。皿上に犠牲の心臓をのせて祭り、寧静を求める儀礼の意です。中山国の篆書には丂(こう)の有無による2系のほか、宀(べん)を略したもの(方壺にあります)の合わせて3種があります。ここでの字形は、皿(べい)を簡略化したものとなっています。

「溺」:「しゃく」のさんずいの部分が傷んでいるために拓影が鮮明にでないものもあります。状態の良いものに拠って習うと良いと思います。

「於」:前述していますので参照して下さい。

 

戦国中山王圓鼎を習う(7)「其汋於人」

隹十四年、中山王作鼑。于銘曰、於虖、語不(發)哉。寡人聞之。蒦(與)其汋(溺)於人施、寧汋於淵。》

隹(こ)れ、十四年、中山王□(せき)、鼎を作る。銘に曰く、於虖(ああ)、語も□(悖・もとら)ざる哉(かな)。寡人之を聞けり。其の人に汋(おぼ)れんよりは、寧ろ淵に汋れよと。》

「其」:穀物の殻や塵を取り除くための器である箕(み)の形で、其が代名詞・副詞に用いられたために作られた箕の初文。下部は「典」と同様に物を載せるための机や台の形ですが、金文には両手で掲げる形となっているものもあります。

「汋」:ひしゃくの形「勺」を含む字ですが、ここでは音が近い「溺」の意で用いられています。「勺」の形は西周「伯公父勺」の銘文中にある「酌」で確認ができ、ひしゃく本体をあらわす部分とそれに盛られたものをまるい点であらわした部分からなります。下の部分は続けて巻き込むように書くのではなく、最後は点を打つようにして書きます。

「於」:拓によっては鳥の目にあたる部分が2つの点になっているようにみえるものがありますが、その上にあたるものは器面の傷か銹によるものです。

「人」:縦画の位置は、第一画の起点の位置よりも僅かに右に寄せます。線は切り刻む感じで運筆することが肝要です。

 

雅印「一吼」

久しぶりに最近刻した雅印をご紹介いたします。

「一吼」は、毎日書道展会員・独立書人団審査会員・栃木県独立書人団代表・栃木県書道連盟常任理事研修部長、書泉会代表などの任にあり、将来を嘱望されている斎藤一吼先生の雅号です。先生は独立書人団において表現領域を狭しとせず、優れた技術力と豊かな感性によって類稀で格調高い作品を発表し続けておられます。

この雅印は、先生の作風を念頭において制作したものです。奇抜に走らず、意識と感性を沈潜しつつ品格を醸し出すような氏の表現スタイルに沿えるようにと意図したものです。

 

「一吼」 35㎜×35㎜