戦国中山王圓鼎を習う(76)「克敵大邦」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

○「」(克):4回目。「克」と通用する「剋」(こく・きざむ)の俗体に「尅」がありますが、この字形はそれに拠った構造になっています。

○「㒀」(ちゃく)(敵)(てき):「みだり」の意なるも音が近い「㒀」をあてていますが、ここでは「あたる」の意で用いています。「啇」(てき)はもとは「啻」(し)。「帝」は先帝を祀る祭卓の形で、祝詞を入れる器「」(さい)が添えられて先帝の祭祀をあらわしています。なお、「帝」の一部が「用」の様になっている点については、『貯』字論で触れた通り『貯』に比定するための重要な例証の一つで、「」が「曰」になっていることも含め、装飾的融通性がなす中山篆の特性です。

○「大」:人の正面形。「大」を含む字は「天・夫・去・立」などが既に出ていますが、単体としては初めての登場です。

○「邦」:7回目です。偏旁は雁行させず、比較的正対した構図です。

戦国中山王圓鼎を習う(75)「列城數十」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「剌」(らつ・れつ)(列):「列」に通仮させています。「剌」はものを束ねて中に収める形「柬」(かん)と「刀」からなり、束ねられたものが解かれて散らばった様でしょうか。「刀」が「刃」になることはよくみられるものです。「刀」で断首された「」(れつ)を列べる様をあらわす「列」よりは穏やかですね。

「城」:(64)にある「成」のまさかりにつけた飾りの下に、肥点を共有する形で「土」(横画を1本)を加え「城」としています。ここで注意することは肥点の位置が下に移るということです。「城」の字は「土」に従うものと、城壁にある望楼に従うものとがあります。

 」(數):前回に続いて2回目です。詳細は前回のものを参照してください。

「十」:2回目です。甲骨文では同じ1本の線でも横画を「一」、縦画を「十」として区別していましたが、亀甲を用いた占卜で甲羅の裂け目と思われる「甲」も縦画1本であらわすことがあり、金文では「十」の縦画に肥点を加えるようになっていきます。なお、現在の活字「十」の形は甲骨文・金文では骨を切断する形である「七」となります。

 

戦国中山王圓鼎を習う(74)「方數百里」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「方」:3回目です。垂直な縦画と水平な横画の緊張感によって下部の斜画とのバランスを保っています。

」(數):前後の文意から「数」の意とされていて其の字を充てています。しかしながら、字形は「数」の構成素とされている「婁」とは一見異なるもので、両手の「」(きょく)と、「解」に含まれるものと同形の「角」、そして「言」からなるようにみえます。于豪亮は上部は「解」の省略体で、音符「角」が「数」の音に転じたとしていますが、なお、解明には遠い気がします。そこで、中山器の「覆」をはじめ、「要」の金文、「遷」の古陶文にその類似形が認められることから、ここでは「襾」(か)の小篆体に拠る「」も加えて隷定してみました。

「百」:[説文]の古文にこの字形が掲載されています。本来、「百」は音をあらわす「白」の上に「一」をつけたものですが、ここでは「白」ではなく「自」となっています。中山篆の装飾的増画とみてよいと思います。ちなみに、中山以前の金文は皆、上の横画が其の下の部分とついていて塞いでいるかのようです。現在の活字体の字形は小篆と同様に離れていますが、中山篆が長尺にするために加えた装飾表現が関係している気がします。なお、中山三器の円鼎に「全」の形をしたものを「百」の意と解している点については未だ解決に至っていない問題の一つです。

「里」:「田」と「土」からなりますが、音の説明がつきません。白川静は「吏」との語源的な関係を示唆しています。「田」をコンパクトにして「土」を引き伸ばす構成をとっています。

 

戦国中山王圓鼎を習う(73)「闢啓封疆」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封疆、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦疆を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

」(闢・びゃく):この字形をどのように隷定するか。赤塚忠は「」とし、小南一郎は「」としています。しかし、これは「」とすべきでしょう。中山三器の同要素を含む字を参照すれば自明なことだと思います。同要素を含む字は、「戒・朕・送・棄・與」を挙げることができ、その「廾」(きょう)には2本の横画を添えるのが中山篆の特徴となります。

「啓」:祭壇の扉の中に祝告の器「」(さい)を収めた形の「启」(けい)と木の枝で撃って促す形「攴」(ぼく)からなり、もとは神の啓示をいう字です。「」の上の空間に「攴」の手の部分を押し込むような構成をとっています。

」(封)」:[字通]から引用すると「丰(ほう)+土+寸。金文の字形には、土の部分を田に作るものがある。土は土地神たる社主の形で、社(社)の初文。そこに神霊の憑(よ)る木として社樹を植えた。封建のとき、その儀礼によって封ぜられる。」とあります。この中山篆は土が田に変わったもの、つまり土地神が田神に入れ替わったものとなります。なお、「丰」には肥点がつくのですが、その彫りが浅いために拓影に反映されないことがありますので、注意が必要です。なお、小篆では「寸」となっていますが、金文以前の古い字形は「又」となっています。

「彊」(きょう)(疆):ここでは「さかい・かぎり」の意で用いられていますので、「疆」が正しく、「つよい」意の「彊」は仮借字です。中山三器の方壺には「土」が加えられている字がありそのことが確かめられます。旁がややバランスを崩していますので、中心をとって整えて書くと良いと思います。

 

戦国中山王圓鼎を習う(72)「奮桴振鐸」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

」(奮):おそらくは「奮」の異体字と思われます。隹の尾を田を貫いて長脚にしている点は、中山国特有の造形です。[字通]には「金文の字形は衣+隹(とり)+田。金文の奪の字形は衣+隹+又(ゆう)(手)の会意字で、両者の字形に通ずるところがある。金文の奮・奪がともに衣に従うのは、哀・衰・褱(かい)(懷)・睘(かん)(還)など、死喪の礼に関する字がみな衣に従うのと同じく、奮・奪も霊の与奪に関する字であり、隹は鳥形霊の観念を示すものとみてよい。奮字の従う田は、舊(旧)字の従う臼とともに、鳥を留めておく器の形と考えられる。これによって留止することを舊という。奮はその留止をしりぞけて奮飛する意。奪は奮飛し奪去することを示す字と考えられる。」とあります。

「桴」:「桴」(ふ・ふう)には「いかだ」の意もありますが、ここでは「枹」(ふ・ほう)と同じで「太鼓のばち」の意です。旁を少し上に上げて木偏の脚を強調させます。

「䢅」(しん)(振):同音の「振」の意で用いています。上部は「臼」を充てていますが、本来は「貴」の貝を除いた部分。この部分は貝をつなげた形である「少」に変わることがあり、中山三器では方壺にある「遺」字にその形を認めることができます。「臼」の中にある鑪錘や線香花火のような部分は、なお不明ですが、神が憑依するための枝「丰」(ほう)の中心部とみる考え方、あるいは実の付いた稲穂、大きくなった根菜の形などとする他、臼を付く形「舂」(しょう)の古い字形に含まれる「午」(杵)とみることもできます。しかし、「少」の一部が残り、「掲げ、奉じる」意を持つものとして定型化したものと推測することもできる気がしています。

「鐸」:声符である「睪」(えき・たく)は獣が屍となって風雨に崩れんとする姿です。「目」の起筆をこのように書くのは「徳」と同じです。

 

 

戦国中山王圓鼎を習う(71)「不宜之邦」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

「不」:5回目です。前回と異なって第一画に短い横画が入るタイプです。交叉する斜画によってできる▽は小さくします。

「宜」(義):ここでは「義」の意で用いています。白川漢字学では「宜」を廟屋と「且」の中に祭肉がある形からなるとしています。また、「且」がまな板とされていますので、まな板にお供えの肉をいくつも置く形となります。ただ、[字通]では「重ねる」意にはふれていないのですが、「且」の古い字形はみな上部が尖っていて、まな板の形状というよりも肉を重ねて置いた様、つまり側面図として見えなくもないですね。中央の2つの画は仕切りや重層の様を表しているように思えます。ちなみに、その2画を斜めにする例は西周金文にも存在しています。

「之」:13回目です。

「邦」:6回目です。器面の腐食や銹の影響で拓が鮮明でないものもあります。接写画像によって確認して習うことが求められます。

戦国中山王圓鼎を習う(70)「之衆以征」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

 

「之」:12回目となります。横画に至る直前で曲げるタイミングとその長さをつかむのはなかなか難しいです。

「衆」:「目」と3つの「人」からなる字で、城邑に住む人々をさしています。現在用いられている活字の「血」は誤りです。もとは城郭を示す口やその中に住むことをさす横画を添えたもの、あるいは儀式を執り行う宮廟の前をあらわす「公」に従うものもありました。中山三器では「目」をこのようにした字に「見・馬・省・相・德・斁・親・(懼)」があります。今回の字では「人」の脚の表現がやや冗長気味に感じます。

(ム)」(以):5回目です。起筆から湾曲させた右端がこの字の中心と考えて書きます。

「征」:ある対象に向かって赴く意の行人偏「 彳」(てき)と城郭に向かって進む意の「正」からなる字です。「正」は城郭の「囗」(い)と足の形「止」からなりますが、似た構造である「足」の膝頭(膝蓋骨(しつがいこつ))は四角を留め、片や「正」は横画に変化しました。中山国の篆書ではさらに装飾的に増画しています。

 

戦国中山王圓鼎を習う(69)「親率参軍」

《於虖、攸(悠)哉天其又(有)刑、于在厥邦。氏(是)以寡人、(委)賃(任)之邦、而去之游、亡遽惕之(慮)。昔者(吾)先祖(桓)王、邵考成王、身勤社稷、行四方、以□(憂)勞邦家。含(今) (吾)老賙(貯)、親䢦(率)參軍之衆、以征不宜(義)之邦、奮桴振鐸、闢啓封彊、方數百里、剌(列)城數十、克敵大邦。寡人庸其悳(徳)、嘉其力。氏以賜之厥命。》

《於虖(ああ)、悠なる哉。天其れ刑すること有り、厥(そ)の邦に在り。是れ以て寡人、之の邦を委任して、去りて之(ゆ)き游ぶも、遽惕(きょてき)の慮亡し。昔者(むかし)、吾が先祖桓王、邵考成王、身づから社稷に勤め、四方を行(めぐ)り、以て邦家に憂勞せり。今、吾が老貯、親しく参軍の衆を率ゐて、以て不宜(義)の邦を征し、桴を振ひ、鐸を振ひ、邦彊を闢啓すること、方數百里、列城數十、克(よ)く大邦に敵(あた)れり。寡人、其の徳を庸(功)とし、其の力を嘉(よみ)す。是れ以て之(これ)に厥(そ)の命を賜ふ。》

 

 」(親):[字通」には、「辛(しん)+木+見。神事に用いる木をえらぶために辛(針)をうち、切り出した木を新という。その木で新しく神位を作り、拝することを親という。〔説文〕八下に「至るなり」とし、また宀(べん)部の寴字条七下にも「至るなり」とあって同訓。寴は新しい位牌を廟中に拝する形で、金文には親を寴に作ることがある。父母の意に用いるのは、新しい位牌が父母であることが多いからであろう。その限定的な用義である。すべて廟中に新しい位牌を拝するのは、親しい関係の者であるから、親愛の意となり、また自らする意に用いる。」とあります。「親」として用いる中山国の篆書には他に「宀」と「新」からなる字もあります。

」(率):2回目です。水にさらした糸束を絞っている形「率」(固定する横木は省略)に「辶」が加えられていて、「ひきいる」意となります。前回の例よりも行人偏の下部を長く表現しています。

「參」:西周金文は、巫女の頭部にある3本の簪が明らかな字形です。[字通]によれば「厽(るい)+㐱(しん)。厽は三本の簪(かんざし)の玉の光るところ。㐱は人の側身形に彡(さん)を加えて、人の鬒髪(しんぱつ、黒髪のこと)の長いさま。」とありますが、「㐱」は側身形にした身体から放たれる光彩を表現したものと思われます。楚簡には側身形の左右に4点を対称に、周囲へ光彩を放つように配しています。中山篆はその4点を2つの渦紋に替えた表現です。

「軍」:「勹」(ほう)と「車」からなる字です。白川静は金文では「勹」を軍旗のなびく様としています。それに従えば、上部の短い2本の横画は「中」にもみられるような吹き流しではないかとも想像できます。ただ、一方で金文には「勤」など耜(すき)をあらわす「力」と近似したものがあり、この中山国の篆書はそれに類する系統であり、あるいは武具の一種ではと思わせる姿をしています。

中山三器「貯」字隷定問題(1)

前回登場した「貯」の隷定について、浅学を顧みず私の所見を紹介させていただきます。これは2017年9月に河北省石家荘市において中国河北省中山国文化研究会が主催する「中山篆書法篆刻学術報告交流会」にて発表したものから一部を抜粋したものです。今回を含め2回に分けて投稿します。この諸賢のご批正、ご指導を賜りたいと思います。

今回取り上げる問題の字の拓影は

円鼎拓より

となります。この戦国期の篆書を楷書(活字)体に当てはめようとする作業が隷定です。漢字の研究ではよく用いられる手法に中国音韻学による方法があります。その手法の一つは、同系の音韻は同義に通じる可能性が高いとするもので、それに拠った研究者および字説はよくみうけられるものです。しかし、同音異義も当然あるわけですから、強引な説解には誤謬の危険性を孕むことになります。今回の拙論はその切り口は採らず(そもそも門外漢ですから)、ただ漢字に親しみ、数多くの字例に関わってきた一人の表現者としての感性を拠り所にした判断にすぎません。以下、字形上の問題として掲げた2字の一つとして認めた「貯」字論です。