戦国中山王方壺を習う(20)

[ム(以)阤(施)及子」  以て子(孫)に施及し

「ム」(以):「ム」は「私」と同字で「㠯」(耜 すき)の形。さらに「㠯」と「人」からなる「以」のもとの字でもあります。※すき(耜)を「㠯」の形にすることに関しては金文編に収録されている字形を見る限り妥当ではなく、上の四角形の左縦画を空かした「」とすべきです。「㠯」では「師」の祭肉の甲骨文と同形になってしまいます。

「阤(陀)」(施):「施」とは声符「也」(イ)を介しての通用となります。この字形は「阤・陀・陁」(音はタ・ダ・イ、義はくずれる・ななめ等)いずれにも隷定します。偏は神梯(神が昇降する梯子)で旁の「也」は蛇の象形(匜という水器などの説もある)とされています。

「及」:人と手をあらわす又とからなります。後ろから手を伸ばし前の人に及ぶ形です。中山篆では上の人の部分を一画増やしています。

「子」:殷周の字形は頭部が大きい幼児の象形ですが、中山篆では長脚にするため8頭身のようなスマートな体型となります。

 

戦国中山王方壺を習う(19)

[(純)悳(德)遺(訓)」  純徳遺訓(有り)

」(純):「純」の糸が束になった形。「束」は薪などのたば、「糸」は糸たば、ともに束ねた状態のもので、通用していたと思われます。「屯」も糸に関係する字で、「トン・ジュン・チュン」の音を持ち織物の糸の端を結び止めた形です。

「悳」(德):徳の意で用いられています。悳は直と心からなり、直は省に隔絶を示す乚(イン)を加えた形。省は目に呪飾「」(テツ)を加えた形で、セイの音に誘因され「生」に似せて肥点を加えるようになったと思われます。ただ、直と省の呪飾には明らかな違いがあり、直の場合は左右に分岐する画はありません。また、直の乚(イン)は省略することもあり、徳の字形はその乚(イン)を略した直と、目に呪飾を加えて地方所領を巡察に行くことから付いた彳(テキ)と心からなるものが一般的です。ただ、まれに呪飾が(テツ)になるもの(王子午鼎)や彳(テキ)が辵(チャク)になるもの(王孫遺者鐘)などの例があります。今回のこの「悳」の字は乚(イン)と目の間隔が空きすぎた感がありましたので若干修正を施しました。

「遺」:音は「イ・ユイ」ですがもとは声符である貴の音であったと思われます。《字通》には「(キョク)+貝。貝を両手で捧げる形。貴重なものとして扱う意を示す。〔説文〕六下に「物賤(やす)からざるなり」とし、字形を貝に従い、臾(ゆ)声とするが、声が合わない。」とあります。貝の部分は貝や玉などを綴った形「少」としています。

」(訓):川と心からなります。川には古く「クン」の音があったと思われ、ここでは「訓」の意として用いられます。川の音の変化は他にも「順」の「ジュン」があり、この字はそれらと通用しています。

戦国中山王方壺を習う(18)

[成考是又(有)」  成考、是れ(遺訓)有り。

「成」:字通に「卜文・金文の字形は、戈(ほこ)に綏飾としての丨(コン)を加える形。器の制作が終わったときに、綏飾を加えてお祓いをする意で、それが成就の儀礼であった。」とあります。

「考」:声符は曲刀を表す丂(コウ)。〔説文〕によれば「老」と互訓です。また、「老」が「長」(長髪の老人)と人の倒形で屍体の形「」(カ)からなるのに対して、「考」は「長」と腰の曲がった姿に似る曲刀「丂」を組み合わせたものです。また、〔礼記、曲礼下〕には「生前は父と曰ひ、母と曰ひ、死後は考と曰ひ、妣と曰ふ」とあって、父母を祀るときには考妣(コウヒ)を用います。

「是」:匙(さじ)の形。「是」が「これ」などの別義に用いられるに及んで「さじ」は是と同様に「さじ」の意を持つ「匕」(ヒ)を加えた字ができました。

「又」(有):右手の形。金文では「右・有・佑・侑」などの意に用いられます。中山篆では「夕・祀・爲」などのように渦紋を装飾的に追加する場合と「爾・余」などのように点画の一部を渦紋に替える場合とがありますが、この「有」としての「又」は「月」を渦紋に替えたものとみることもできるような気がします。

 

戦国中山王方壺を習う(17)

[文武(桓)(祖)」  文武、桓祖

「文」:甲骨文や金文の字形は、人の正面形の胸部に文身(入れ墨)の文様を加えた形です。それより「あや・もよう・かざり」の意を持ちます。ここでは、この方壺の作者である(サク)に繋がる中山国の初代から4代までの王統について触れています。つまり、中山国王の系譜は①文公(中山国初代の君主)②武公(B.C.414即位、B.C.406魏によって滅ぶ)③桓公(B.C.380頃 中山国を復興)④成公⑤(サク)(方壺、円鼎の作者)⑥ (シシ)(円壺の作者でB.C.299に趙に敗れ、逃亡先の齊で死去)⑦尚(中山国最後の王、B.C.296 趙の武霊王によって中山国は滅ぶ)となっています。

「武」:足の形で歩の省略形である止(し)と武具のほこである戈(か)からなり、戈(ほこ)を執って行軍することをいいます。

」(桓):走繞のこの字は通常エンと発音しますが、声符の「亘」はカンの他、エンの音も持ちます。字形は二線を配した区画の間でめぐる形。ここでは「」が「桓」の仮借字として使われているようです。「桓」は軍営で武功を表彰するところに立てられた標木で、武勇の勇ましさをさす字ですが、ここでは中山国第3代の王名となります。

」(祖):前回に続いて2回目です。

戦国中山王方壺を習う(16)

[隹朕皇(祖)」  隹れ朕が皇祖

「隹」:2回目となります。

「朕」:が正字。祭器の盤である「舟」と両手でものを奉ずる形「」(そう)からなる字。金文では一人称の代名詞で用い、秦になって始皇帝がこれを以て自称するようになりました。

「皇」:2回目です。

」(祖):一般的な「祖」と違い、中山篆は祭卓「示」と祭祀に供える肉片を列べた形「俎」と手を表す「又」とからなる字です。

戦国中山王方壺を習う(15)

[以憼(警)嗣王]   以て嗣王を警(いま)しむ

「ム」(以):3回目です。

「憼」(警):「敬」は10回目に登場していますが、もともと「敬」は生け贄の羌人と祝禱の器を打って神意に責める字で「いましめる」意を持ち、後に神への心意に特化して「うやまう」意が付加されるに及んで、「いましめる」意に「憼(儆)・警」などが孳乳しました。中山国諸器では方壺で「敬」と「憼」(警)を区別して使用しているのにも関わらず、侯鉞では「敬」の字形をそのまま「憼・儆・警」として用いる例が認められます。戦国期中山篆の鷹揚性ともいえる一例です。

「嗣」:この字について《字通》には「司(し)+口((さい))+冊(さく)。司は祝禱の器()をひらいて神意を伺う意。冊は冊祝して神に告げる意。嗣続の大事を以て神意を問うものであろう」とあります。重複する(さい)を間に据えた構成には中山国人の秀でた造形感性をみることができます。

「王」:3回目です。縦画の位置は「嗣」の「冊」中央の縦画に揃えて書きます。

 

 

 

戦国中山王方壺を習う(14)

(詆)郾(燕)之訛]   燕の訛(あやま)りを詆(そし)り

」(詆):は詆(テイ)の異体字。しかる・そしる・はずかしめる等の意があります。《字通》を引用すると、「氐(テイ)は曲刀を以て底部を刳(えぐ)りとる形。そのようにしてものを毀損する意がある」とあります。下の横画は底を表し、「氏」部の左の巻き込みは中山篆特有のものです。

「郾」(燕):古代中国の燕国を金文では音の近い「郾」字で表記します。「匽(エン)は秘匿の場所(匸)で、女子に玉(日)を加えて魂振りをすること」と《字通》にあります。魂振りとは神の気を招くことで自身の霊魂を充実させることです。

「之」:足跡の形と境界を示す横画からなります。

「訛」:譌が正字で、訛は異体字とされていますが、譌の声符は爲(イ)であり、両字は同義により通用する関係ともいえます。「いつわる・あやまり」などの意です。

 

戦国中山王方壺を習う(13)

[昭察皇功]   皇功を昭察す

 

[卲](昭):卲(ショウ)は昭の古字。神の降り到ることを拝して求め、そして迎える形。字訓は「あきらか・あらわす・かがやく」など。「昭」の字形は戦国期羌鐘(ひょうきょうしょう)に、「卲」の字形に「日」が加わった姿で登場し、その後は「卩」を省いたものが定着していきます。

」(察):この字を何の字に通仮させているかについてはいくつもの説があります。一つ目は「跋」とする説。「」(フツ・ハツ)の略体と捉えて跋文の「跋」(バツ)に通じるとし、「留め記す」と解するものです。しかし、犬の耳がなく、去勢の画が湾曲しすぎている点が気になります。二つ目は、「肆」(シ)とする説。「肆」はもと「」と書く字で、「ころす、つらねる、ならう、おさめる、くるしむ、ながいえだ、えださき、あまる、しらべる」などの意をもちます。この字が含む「隶」(タイ)の字形は蔡・祟・殺・(テイ)に共通するもので、たたりをもたらす獣を殺して敵の呪いを防ぐ呪儀をあらわしています。また、これと似たものに「求」もあります。これらと比べると尾毛の部分が一画少ないものの、確かに字形からすれば近似しているといえます。白川静氏もこの一系の「蔡」の字形とみて「察」説をとり、音通によって「察」の通仮字としています。これが3つ目の説です。「察」には「つまびらかにする」意があり、「皇功を昭察す」と、文脈にも適うように思われます。4つ目は、「豕」(タク)の古文「」が似ているとして「琢」、つまり琱琢(チョウタク)で削り刻す意であろうとするものです。これは小南一郎氏が呈示している説です。張守中氏の《中山王器文字編》を参照すると、当該字は「蔡」「」(肆)とは同系とすることを避け、「」のままにしています。諸説紛々。いずれも裏付けとしては決定的な証左に欠けますが、ここでは「察」説に従うこととしました。

「皇」:王の象徴である鉞の上部に玉飾りがついている形です。

「工」(功):「工」には巫祝、楽人、神につかえる者、たくみ、工作者、作る、つかさ、役人、てがら、業績などの意があって「功」に通用します。上下を少し詰めて書きます。

戦国中山王方壺を習う(12)

[ 因載所美]   因りて美しとする所を載(おこな)ひ

「因」:筵(むしろ)や茵(しとね)に人が大の字になって臥する形です。むしろは座するとき常に用いるので、「つねに・もと・よる・たよる・ふるい」などの意を持ちます。

」(載):声符は「」またはそれに含まれる「才」。「才」は神樹に祝禱の器を架けた形。中山篆は「戈」を略した構成になっています。軍旅に際して兵車を祓う行為と思われ、「はじめる・おこなう・のせる」などの字訓を持ちます。

「所」:戸(霊廟の扉)と斤(呪鎮に用いる祭器)とからなり、聖所をさす字です。

「美」:羊の全体の姿です。字訓は「うつくしい・よい・ほめる」など。下部の「大」と「羊」を組み合わせた字は「達」の声符である「羍」(タツ)となり、羊が子を産む様をあらわします。