旧作「梁嶽頽峻」(任昉『齊竟陵文宣王行状』)

「梁嶽頽峻」 梁嶽とは梁に高くそびえる嶽(やま)。頽峻とは峻(たかき)を頽(くず)すこと。学徳兼ね備えた文人でもあった竟陵王文宣「蕭子良」の惜しむべき崩御を指している。

2006年に白川静先生、翌2007年に小林斗盦先生と巨星二人が相次いでご逝去されました。先師として薫陶を受けた両巨星の遺徳を忍び、心に刻まむとして、拙齋を「観星楼」と命名。この印はその時に、任昉の言う「梁嶽」に準え封泥調を以て刻したものです。

任 昉(じん ぼう、460 ~508)は、南朝斉から梁にかけて秀才との名声高き文学者。南朝斉の文化的な中心は、斉武帝の次男の竟陵王蕭子良(460~494 諡は文宣)のサロンであった。彼の邸宅である西邸には当時の第一級の文人が集い、その代表的な8名を「竟陵の八友」と呼んでいる。同じ八友の一人で、詩にすぐれた沈約に対し、「任筆沈詩」と称される。

蕭一族の蕭衍はやがて斉の暴政から兵を挙げ初代皇帝として梁を建国(在位502~549 諡は武帝)。その晩年は深く仏教を信仰し、戒律を守り、自ら「三宝の奴」(仏法僧に帰依する意味)と称した。南朝の仏教はこの時代に最も栄え、都建康には700もの寺院があったという。朝鮮の百済は梁に使者を送り、仏像や経典を求めた。朝鮮の仏教は中国の江南の仏教を移植したものといえる。日本に百済から仏教が伝えられたという538年(一説に552年)も中国南朝では梁の時代である。聖徳太子は憲法十七条で「篤く三宝を敬え」と言い、聖武天皇も自らを「三宝の奴」と称したのはいずれも梁の武帝の影響である。[一部引用 ウィキペディア]

梁嶽頽峻
54㎜×54㎜