戦国中山王方壺を習う(105)

「生福(載)之   福を生む、と。之れを(簡策に)載せ

「生」:2回目です。

「福」:声符の「畐」(フク)は「みちる」意をもちます。甲骨文・金文ともに下部の膨らみを強調した器形で、酒樽の類と思われます。

」(載):2回目です。

「之」:14回目です。

戦国中山王方壺を習う(104)

「生禍隹(順)   (隹れ逆は)禍を生み、隹れ順は

「生」:土から草が生え出ずる様を表した字です。

「禍」:声符の「咼」(カ)は残骨「冎」(カ)と祝禱の器からなり、屍体に留まる霊による呪詛の形。「示」は神事に用いる祭卓です。中山諸器では唯一の字例となります。残骨「冎」になお肉が残っている様が「骨」で、他にも残骨を表す字に「死」の「歹」(ガツ)、頭骨に髪が残った「列」の「」(レツ)、屈葬の「亡」に関連したものでは、残骨の表現に違いがある「乏」や髪を残した「巟」(コウ)があります。

「隹」:5回目です。

」(順):5回目です。

戦国中山王方壺を習う(103)

(後)嗣隹逆   後嗣に(告ぐ)、隹れ逆

」(後):「後」の繁体で、進退を表す「辵」(チャク)、祭祀の呪具で糸束を捻って結んだ「幺」(ヨウ)、祭器を供え祝詞を奏して神霊が降りる象である「各」とからなります。ちなみに「幺」を盛器である「 」の略体「日」に替えたものは「退」で、神に供えたものをさげる意をもちます。

「嗣」:2回目です。

「隹」:4回目です。

「逆」:3回目です。

戦国中山王方壺を習う(102)

々 (祗々)翼(翼々)(昭)告」   祗々翼々として昭かに(後嗣に)告ぐ

」(祗):この字は「甹」(ヘイ・テイ)に含まれる祭礼の儀で用いる器が上下逆さまに重ねた形で、おそらく甑(こしき)の類かと思われます。つまり、「甹」では同形の礼器を2つ横に並べるのに対し、上下に重ねた、配置を異にする関係となります。そのことは、西周晩期の史牆盤などで確認することができます。また、春秋期の蔡侯器では上下かつ互いに逆さまに重ねた「由」形の礼器の間に、両手または「君」に含む神杖が加えられていて、中山篆の「」の様な構造はそれらの譌変を経たものと推測できます。下部の「而」も本来の「而」ではないことを示すかのように、4本の脚尾に横画を添えています。なお、字形では「祗」の構成素とは結びつかず、「テイ」の音通によって後に「つつしむ」意の「祗」が充てられたと考えられます。

「翼」:「羽」と「異」とからなります。「羽」は左右反転していますが、明らかに羽根の形で、対称性を狙った意匠。「異」は異形の神の姿で「イ・ヨク」の声をもちます。上の「祗」と同様に重文記号を補うべきと思われます。「祗々」と「翼々」のどちらも「つつしむ」で「祗々翼々」は「つつしみ深い」となります。中山諸器では唯一の字例です。

卲(昭):2回目です。

「告」:木の省形と祝禱の器「」(サイ)とからなる字です。祝禱の器を高い標木につけたものが「才」です。中山篆では「」を「者」の「曰」と同じようにすることがあり、他には「古」と「否」でみることができます。

 

戦国中山王方壺を習う(101)

「 而旹(時)觀焉」   時に焉を観ん。

「而」:5回目です。

「旹」(時):「之」と「日」に従う形。「時」の「寺」は「之」と「寸」からなる字で、ある状態を維持する意をもち、時節に関するときに「時」となります。中山篆のこの字は[説文]古文と同形。中山諸器では唯一の字例です。

「觀」:声符である「雚」(カン)は毛角がある鳥の形で、鳥占(とりうら)を行う際に用いました。「觀」は鳥占によって神意を察することであろうと白川静氏は述べています。中山諸器で、唯一の字例です。

「焉」:2回目です。ここでは「ここに」と読みます。

戦国中山王方壺を習う(100)

[蔡](察)之于壺   之を壺に(明)察して

」[蔡](察):2回目です。ここではこの字形を、祟りをもたらす霊獣の姿「蔡・祟」の尾が簡略化したものと捉えます。「明察之于壺」は方壺銘冒頭の「昭察皇功」の表現に通じるもので、「察」はつまびらかにする意となります。なお、この字については諸説あり、「犮」(ハツ)の省形として跋文の「跋」に通仮させ、最後にことの顛末を記し留める意とする説などもあります。詳しくは(13)の解説をご参照下さい。

「之」:13回目です。

「于」:2回目です。

「壺」:2回目です。

戦国中山王方壺を習う(99)

(哉)若言明   (允なる)哉、若の言。明らかに

」(哉):この形は呪飾の糸飾り「」(シ)と祝祷の器を架けた形「才」とからなります。一方、通仮させている「哉」は「才・戈・」からなります。おそらく、この字は糸飾りをつけた「戈」(つまり「幾」)と「才」を組み合わせたもので「幾」の「戈」を略して「」をあてたものと思われます。「」も略していますが、既に「才」の中に含まれています。

「若」:上部は両手をかざす様で、活字の草冠の部分にあたります。脇に祝祷の器を供え、神からの託宣を承けようとして舞う巫女の姿をあらわす字です。右側の2画について、甲骨文には異様な雰囲気の中で狂おしく、また激しく舞う巫女から飛び散る汗か、妖気の様なものを加えている字例があり、その類による修飾かと思われます。

「言」:墨刑に用いる針である「辛」と盟誓のことばを収める「」とからなります。「言」とはその盟誓の辞のことです。その審理を神に諮り、その結果として神判が下されたものを「音」といい、その時に生じる幽かなる音や気配が訪れることを「音なひ(訪ひ)」といいます。

「明」:2回目です。西周金文では「窗」(窓)の形をとっている部分を中山篆では「日」にしています。実は甲骨文の「明」に「月」と組み合わせる「窓・日・曰(エツ)」の3つのパターンが存在しています。

 

戦国中山王方壺を習う(98)

(附)(於)虖(乎)(允)   (庶民は)附す。於乎、允なる

」(附):「付」は手に持ったものを人に渡し与える象ですが、西周金文の字例をみると「寸」ではなく「又」(手)に従っているようです。「寸」単字での古い用例は楚簡を遡る字例は見当たりません。「寸」を構成素とした字でも、例えば「寺・尃・射・尊・對・導・得」など小篆以降に「寸」とした字は多くの場合、古い字形は「又」(手)に従っているのです。戦国の中山篆での他の例では、この他に「封・得・傳」が該当しています。声符「付」には付与、付加の意がありますが、ここに「臣」を加えて「したがう」意を持つ「附」に通仮させています。

」(於):7回目です。

「虖」(乎):虎頭の形と「乎」からなります。「乎」は振ると音が出る神事に用いた鳴子板で、板上にある左右の遊舌の部分を渦紋に変えています。白川静氏によれば虎頭に従う字は神事に関するものが多いとされます。また、「於乎」で感歎辞「ああ」とするのは《詩経》大雅などにみられる用法であると小南一郎氏は述べています。

」(允):中山諸器では唯一の字例で、後ろ手に縛られた罪人の姿とされるこの字は声は「イン」、「まことに」の義を持ちます。「允」の下に「女」を加える形はすでに西周の孟姫簋に登場しますが、後に楚簡に頻出するものです。

 

戦国中山王方壺を習う(97)

「中則庶民   中なれば則ち庶民は(附す。)

「中」:3回目です。方壺には3例あって、吹き流しが入らないものが一つだけあります。なお、この他にも中山諸器の兆域図と鉞に2つの吹き流しを上部にまとめた字体があります。

「則」:6回目です。方壺に6例すべてがありますが、「刀」を「刃」にしているものが一つあります。

「庶」:「广」(ゲン)と「廿」と「火」とからなります。白川静氏によれば「衆庶(庶民と同じ)の意とするものである。广は廚房、廿は鍋など烹炊(ホウスイ)の器の形。鍋の下に火を加え、烹炊を原義としてもとは炊き合わせたものをさす字」とあります。

「民」:2回目です。

戦国中山王方壺を習う(96)

「人(親)(作)(斂)   (賢)人は親しみ、作斂(中なれば)

「人」:5回目です。

」(親):「宀」(ベン)と「辛」、「木」、「斤」とからなります。祭祀用の神木を入山して新たに伐る際には、修祓として矢を射ったり、辛(針)を打ったりします。同声によって「親」に通仮させています。「辛」の第一画の横画について、円鼎の字例では入れていますが、この方壺では省いています。

」(作):「乍」(サク)は「作」の初文。垣などを作るため木を撓める形で、土木工事の他、大きな事を為す意に用います。ここで「又」(手)を加えているのは徭役(ヨウエキ えだち)であることを暗示させます。同じ「作」でも円鼎では「鼎を作る」の表現には「言+乍」の形にしており、意によって字形構成を変えるというこだわりを感じます。

」(斂):「おさめる」意の「斂」(レン)と祝祷の器に神からの啓示が下された象である「曰」(エツ)とからなります。「僉」(セン)は礼冠をかぶった二人がそれぞれ祝祷の器を奉じ祝祷に臨む様とされています。人の側身形の脇に添えられた3画は、金文、楚簡での他の字例には認められないもので、中山篆独特の造形に配慮した修飾表現と思われます。また、礼冠をかぶっているとする部分には異説もあると思います。ここは租税の意で、「作斂」は徭役と租税を指しています。