星齋印稿

校字から印稿作りまでの流れ

「己亥」(2019年の干支)印稿の場合

校字

印稿を書くための準備として「校字」の作業があります。「校字」とは「印稿」つまり作品のイメージを作る前に篆書各体を字書から調べ選び出す作業のことですが、篆書に慣れていない初心者の方は勿論のこと、たとえ経験を積まれた方であっても、誤りを生じさせないために校字は不可欠であり、しかも丁寧にしなければなりません。

校字には字書と字源辞典が必須となります。字書は楷書・行書・草書などの各書体を集めた一般的なものではなく、篆書専門に編集されたものを使います。また、篆書と一口にいっても、時代的には殷から後漢に至るまでの千数百年間にわたって、甲骨文・金文・古璽体・小篆・印篆・楚秦漢の簡体などの変遷があり、それらの書体を総称して指しているものです。したがって、篆刻では通常、篆書と比定される各書体を網羅した総合的な篆書字典を用います。しかもこの際には、字例が多く、出典が明記されているものを選ぶことがとても重要になります。私の場合、ふだんは拓影や書の写真の切り抜きで編集された総合篆書字典ともいうべき「篆隷大字典」(赤井清美著)を使い、より綿密に推敲したいと考えるときは、さらに「甲骨文編」「金文編」「古璽文編」「漢印文字徴」「清人篆隷字彙」など、一つないしそれに近い書体に絞った専書も併用して、いくつもの字例からより適したものを捜すようにしています。また、字例には微妙な揺らぎというような表現上の幅がありますので、珍しいもの変わったものがある場合は一応、「字統」(白川静著)などの字源辞典にあたって形態の根拠を確認することをお勧めします。それでも迷いが残るときは、字例間に特徴を共有する標準的なものを選んでおきます。なぜなら、字例の中には稀に問題のあるものが交じることがあるからです。なお、手書きのものは字姿が編者の力量に左右されますし、出典が明らかでないか若しくはその説明が抜けており、字例もきわめて限定的です。中には古典に例を欠く字を、字形学的な考察の上に作字して補った労著もあります。しかし、かりにその書写力が優れていたとしても窮した時の参考程度に留めたほうがより賢明といえます。

 

それでは、本年の干支である「己亥」を例にとって、印稿作りの過程をご紹介しましょう。まず、「己」、「亥」それぞれを字書を用いて調べ書き写していきます。用いた字書は「篆隷大字典」(赤井清美著)、「新甲骨文編」(福建人民出版社)、「金文編」(中華書局)、「古璽文編」(文物出版社)、「古文字類編」(上海古籍出版社)、「漢印文字彙編」(雄山閣出版)、「清人篆隷字彙」(雄山閣出版)、「鳥虫篆大鑑」(上海書店出版)。その他、拓影資料として「書跡名品叢刊(金文集1~4)」(二玄社)などを参照しました。幾種類もの字書を揃えるのは大変だと思いますので、初心者の方はとりあえず「篆隷大字典」(赤井清美著)を用意すれば当分の間は困ることはないでしょう。用紙はスケッチブックの表紙に使うような厚い黒色ケンラン紙を使いました。 

 

校字用紙は黒ケンラン紙(葉書大)  朱墨は「柿形」(日本製墨)   筆は「極品 寫巻小楷」(善璉四徳筆房)

[校字]

几帳面におこなう場合は、まず「字統」で字源を調べ要点をノートに書き留めます。さらに「篆隷大字典」から説文解字の頭字に使われている[小篆]を書き、続けて[甲骨文][金文][楚簡体][古璽体][印篆][清人小篆]という具合に古い順から写し並べていきます。

「甲骨文編」など各書体毎の専書がある場合はそれらから良いものを選んでさらに付け加えます。その際、収録されているページをメモしておきましょう。

左はノートを使わず黒の厚紙に書く簡便な方法です。しかし、字形を正確に写すという一点だけは妥協をしてはいけません。忠実・正確を旨として修正を重ねる、その姿勢の積み重ねがやがて大きな力となっていきます。

 

 

 

 

 

印稿作り

校字の作業に一区切りがついたら、いよいよ印稿作りです。まず、制作の大まかな構想に始まり、印の大きさや形、朱白を決めます。ただ、どのような表現にするかは、すでに校字の段階でイメージ作りが始まるものと思って下さい。印稿を書く用紙は、使用済みで厚めの葉書を黒く塗ったものがよく使われますが、私は墨で塗る手間を省くため、黒色ケンラン紙を使っています。この印稿用紙に構想に見合った大きさの印材を押し当てて痕をつけるか、定規と鉛筆(ボールペン)で正確な枠を書きます。もし円形の場合はコンパスの代わりに容器の蓋などを使ってもよいでしょう。次に、朱墨と墨で枠(辺郭)を書くのですが、正確な形にしておかなければ印全体に歪みが生じ、うまく仕上げることはできません。私は、ふだんからお弟子さん達に、この枠の出来映えだけをみても仕上がりの善し悪しがわかってしまうと注意を促しています。なお、朱墨は、よく定着し見栄えをよくするためにできるだけ辰砂(丹砂)の含有量が多いものを選びます。

 

己亥印稿(その1)

校字の作業をしながら、どのような印にするのか構想を練ります。文字は同じ書体同士で組み合わせます。ただ、[金文]は殷・西周・春秋・戦国と時代によって、また地域によって趣が変わりますので組み合わせたもの同士が異質とならないよう気をつけましょう。

左は篆書として分類される各書体による印稿です。印の枠は「辺郭」「辺縁」「輪郭」などと呼びますが、古璽や漢印の中には形式的な「辺郭」にこだわらない洒脱な外観を持ったものが「古璽彙編」(文物出版社)や「中国古璽類編」(二玄社)、「漢印文字彙編」(雄山閣出版)などにいくつも見ることができます。初めのうちは字形の整った標準的なものを参考にすることをお薦めしますが、奇抜で俗に陥らない程度ならば自分なりに工夫をしてみてもよいと思います。なお、摩滅・欠け・腐食など「年を経て醸成される古びた風情や趣」をさす「古色」を表現を加えようとするときは、刻すときの偶然に任せきりにするのではなく、印稿の段階から、形態や朱白のバランスと動きを意図しながら推敲したほうがよいでしょう。功を焦らず。卒意の作を目指すのは力がついてからと考えたいですね。

 

 

 

印稿(その2)

左図左下の書体は[鳥虫篆]によるもの。春秋戦国期の列国では矛などの武具に装飾性の強い書体が使われていました。この書体は鳥の頭・嘴・尾・足・羽などに似た形が入ることから[鳥虫(蟲)篆]と呼ばれています。しかし、かなり装飾性が強いので篆刻の基本を学ぶ段階では手を伸ばすべきではないかなと思います。私も先師に師事していたころはずっと避けてきたので未だに勉強不足ですが、最近は、春秋戦国期の篆書に目を向けるようになったこともあり、食わず嫌いになってもいけないなと思うようになりました。

「篆刻」というようにここで扱う書体は、基本的に殷の[甲骨文]から秦の[小篆]に至るまでの「篆書」になります。しかし、戦国期の木簡や帛には既に隷書の萌芽といえる書体が存在していますし、漢代の木簡には篆意が残る書体が確認できます。篆刻が扱う書体は、これらのものも含めた実に広汎な領域であること、だからこそ多彩な表現が可能で魅力の発掘が尽きないのだということを是非知っておきたいものです。

 

 

干支印「己亥」の使用例

己亥年賀状

この印は包山楚簡の文字を使ったものです。あえて輪郭は入れず、その代わりにパソコンで緑の円を設定して印刷し、その中に収まるように鈐印(けんいん)しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「戊戌」(2018年の干支)印稿の場合

戊戌印稿(その1)
戊戌印稿(その2)
戊戌印稿(その3)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年の干支は「戊戌」(ぼじゅつ・つちのえいぬ)でした。戊と戌ともに戈(ほこ)の形を基本に造形されている字で2つの戈が並ぶことになります。この2字は戈の刃身を1本の線で描いたのが「戊」、2本にしたのが「戌」、字の成り立ちから見れば、ただそれだけの違いです。

さて、いざ印稿を作るとなると、なにしろ2字ともほぼ同じ形ですから、単調にならないためにはどのように変化させたらよいのか、構想を練る上では苦労を強いられるなかなか手強い印文といえます。

そこで印の外形を工夫し、正方形にこだわらず、円形・長方形・勾玉形・菱形・ハート形など、いろいろな表現を試してみました。また、「戊戌」2字に元号や吉語を加えてみたり、辺郭を使わないものもいくつか考案して並べました。

なお、私が印稿を作るときは、用いる書体はできるだけ篆書すべてにわたって考えるようにしています。それは、印稿を作る作業は篆書について「知る・思い出す・定着させる」のサイクルを体験し、篆書の世界を通観できるからです。それが篆刻の魅力の1つだと思いますし、印稿をいろいろ悩み工夫しながら完成形に近づけていく過程も、難問の答えをみつけていくようなもので実に面白いものです。

近年のアジア漢字文化圏の中に広がる政治的に不穏な動きが、近い将来に戈を交える事態へ発展することになるのではないか。2つの戈からなる物騒な干支を迎えた2018年、ひょっとしたらと危惧した人も少なからずいたのではないでしょうか。しかし、日本と中国そして韓国と、共有している漢字文化を恢復(かいふく:一度悪い状態になったものが、元の状態になること。「回復」)し、それを紐帯とすればもっと仲良く理解し合えるはずだと思います。

 

「良子(よしこ)」印稿の場合

[良子(よしこ)」印稿

雅号印として1つ例をあげておきましょう。

ここに取り上げたのは「良子」。「りょうこ」と「よしこ」の場合があると思いますが、一部は「よしこ」としての案になっています。ちょっと変わったものとしては、左下の2つで、両方ともアルファベットで「YOSHI」と書いています。右の方は辺郭を外し、左の方は封泥(ふうでい)の趣をこらしました。

 

 

 

 

 

 

 

「参省」印稿の場合

「参省」印稿十種

続いて紹介するのは「参省」です。この語は『荀子』(勧学篇)に「君子博く学びて、日に己に參省すれば、則ち智明らかにして行ひ過ち無し。」とあり、また、『論語』(学而篇)には「 曾子曰く、 吾れ日に吾が身を省す。 人の為に謀りて忠ならざるか。 朋友と交わりて信ならざるか。 習はざるを伝へしか、と。」と出てきます。「参」は「三」のことで「たびたび」の意です。私の場合も、書作にあたっては反省することが尽きることはありませんから、印稿十種から刻した印を、その時の気分に任せて選びこの「参省」印を作品の隅に添えています。

 

 

 

 

 

 

 

「自知者明」印稿の場合

「自知者明」の校字

 

「自知者明」の場合の校字です。

老子33章には「知人者智、自知者明」(人を知る者は智、自ら知る者は明なり」とでてきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「自知者明」印稿5種

「自知者明」印稿5種です。 

右上から、小篆・印篆・古璽体      

左上から、中山国篆・甲骨文となります。

 

校字から完成までの流れ

「無為自然」の場合

「無為自然」は老荘思想の基本的概念を表すものとしてよく知られたことばです。儒教の形式的な生き方に対し、知欲から離れ作為を働かせず、宇宙のあり方に従い自然のままであるべきとしました。

校字の結果をもとに、全体の構成を考えてみます。左の図は鉛筆やボールペンでラフデッサンをしたものです。1回では良くまとまらないので何度でも修正していきます。「自」は左右に空間ができますので、界線を入れて引き締め、相互に照応しながらも独立した緊張感が出るようにしました。

ちなみに、「然」は金文に用例少なく、「金文編」には春秋期中山国のものを含めて2例しかありません。やむを得ず、ここでは「難+灬」と構成される「然」の古字の形で春秋早期の「者減鐘」に出てくるものを選びました。さらに時代を整合させるため、「自」は同じ春秋早期の「大司馬簠」、「爲」は春秋中期の「陳子匜」から採り、「自」は西周晩期の「鄦◇(己+其)簋」のものを3字と調和するよう微妙な修正を施して用いています。

 

ラフデッサンの後は、墨と朱墨を使った印稿制作になります。最初に手がけるのは印の枠、つまり辺郭(辺縁・輪郭などともいう)です。定規で正確に測るか、印材を押し当てて痕をつけるかしてから朱墨を入れ、墨と交互に修正を加えながら仕上げていきます。古色の表現もこの段階から工夫をこらすほうがよいでしょう。もちろん、文字を入れた後はさらに互いの関連を見て補正する必要があります。

いずれにしても、辺郭は、それ自体が作品といえるくらいに調和と変化に富む表現をしてみてください。

 

 

辺郭が書けたら文字を入れます。ラフデッサンをもとに筆意を活かせながら書くことが大切です。何度か筆を重ねていくうちに少し太くなってしまいますが、その過程で文字の最終的な姿のイメージが徐々に固まっていきます。

ちなみに、作品の構想は個性によって自ずから涌いてくるというような単純なものではありません。品格を求めればなおさらのことで、それまでにどのような名品を見てきたかによって左右されます。常日頃から、古典の名品や先人の優品に触れる機会を多く持つようにしたいものです。

 

完成のイメージが浮かび上がるように、無駄な部分を削ぎ落とし、足りない部分は朱墨で補います。なお、この過程で、初期の構想に若干の変更を加えることはよくあることです。修正の必要性を感じることは、むしろ構想が深化していると考えても良いのではないでしょうか。作業を通して常により良いものを目指す姿勢を持ち続けましょう。

 

 

 

 

これが完成した印稿です。細部に至るまでどのように表現したらよいか考えてきていますので、この先、布字や奏刀の作業で迷うことは少なくなるはずです。

この印稿を鏡に映し、事前に整面を済ませておいた印材に布字をします。時々、今度は逆に印面を鏡に映して印稿を比較すると問題点がより明らかになりますし、向きをいろいろ変えてみることも正確性と効率を上げる大きな手助けとなります。

 

 

 

「無為自然」奏刀の途中(左右反転加工)

布字をした後はいよいよ奏刀です。これは奏刀の途中の印面を撮った写真を左右反転したものですが、上の部分を残し、概ね粗彫りが終了しようとしているところです。辺郭の古色は、印刀を倒してから方向、角度、力加減に変化を加えながら表情をつけていきます。余白の底の部分を平らにする必要はありません。鈐印してゴミが写らない程度の深さで良いと思います。

 

 

 

 

 

布字の後、奏刀して仕上げた印影です。上の印稿と見比べていただければ布字をどの程度にまで印稿に忠実にするのかがおわかりかと思います。

試鈐(しけん:試し捺し)が済んだら、じっくりと出来具合を調べたり、印稿で意図した箇所が結果として良かったかどうかを確かめながら、補刀を加えていきます。補刀は少ない方がよいとされますが、それは経験をある程度積んだ場合のこと。最初のうちは、刀意に筆意を含ませながら納得がいくまで加えていくほうが勉強になると思います。