書(書道)を学ぼうと思い立つきっかけを問うと、「字を上手に書きたい」という理由が常に圧倒的に多い傾向にあります。ところが、いざ習い始めると競書誌の成績や社中展での評価が気になったり、師から公募展への出品協力を半ば強制されその結果如何に神経をすり減らし、かつ時間的にも経済的にも果ては人間関係においてさえ、当初は思いもかけなかった方向に翻弄されていく自分の姿に愕然とすることがあります。書を学ぶ仲間を持つということはとても良いことです。自分の視野にはなかった様々な情報や刺激が増え、心掛け次第では仲間との切磋琢磨によって自分が次第に変容していくことに気づく喜びも持てるでしょう。しかし、いくつもの栄誉を漁りながら肥えるのは虚栄心ばかり、その一方で実質的な書の表現力や見識面での成果は一向に上がらないと内心では密かに悟っている、そんなケースが多いようです。本当に身につけたかったのは、栄誉でも肩書きでもない。書を楽しみながら、ちょっと字がうまく書けるようになりたかっただけ、と思いつつ後戻りできない自分に諦念してしまうとしたら、それは実に残念なことです。
実はこれらのことは私自身が過去に体験してきたことでもあります。幸いと言うべきか、公立高校の書道教員として、日々の授業の中では「何を学ぶべきか」「どう学ぶべきか」「不易な価値とは」「流行されど陳腐」「追求すべきは品格」などについて、生徒等に熱く語ってきました。そして同時に、そのことと相容れない書道界での自身の行動に少なからず矛盾を感じながら苦悶葛藤する時間が流れていました。やがて、書道の授業を通して「教える」ことは己が「学ぶ」ことと何ら変わりがないという実に基本的なことを再認識するようになったのです。そのころから、生徒らに語る言葉の中でも特に「古典を師とせよ」を強調するようになりました。つまりその言葉は自分自身への戒めの言葉でありました。
現職のうちから、私は県民を対象とした開放講座を開催し、爾来、現在もほぼ毎年の様に継続しています。主なものを挙げますと、「金文の世界ー漢字の起源をたどる」(2005)、「篆刻入門講座」(2006)、「漢字の風景」(2009)、「書と篆刻の世界」(2011)、「蘭亭序に学ぶ」(2011)、「はじめての漢字学」(2015)、「漢字の成り立ちを探ろう」(2016)、「手彫りの印で楽しい年賀状作り(干支印制作)」(2016)、「はじめての篆刻」(2017)、「書と篆刻のお話しー漢字の小宇宙ー」(2017)、「漢字の魅力を紡ぐ〈書の学び方、楽しみ方〉」(2018)、「篆書篆刻入門教室」(2019) といった具合です。
そして、現在は「初心者のための書道基礎講座」に継続して取り組んでいます。これは毎月1回、時間はあえて通常の倍ほどの3時間とし、内容は「古典の臨書」を基本において学ぶもので、「孔子廟堂碑」(虞世南)、「九成宮醴泉銘」(欧陽詢)、「雁塔聖教序」(褚遂良)、「顔氏家廟碑」(顔真卿)、「蘭亭序」(王羲之)、「風信帖」(空海)、「蜀素帖」(米芾)、「祭姪文稿」(顔真卿)、「書譜」(孫過庭)、「曹全碑」(後漢)、「宋武帝與臧勅」(呉譲之)、「篆書千字文」(小林斗盦)などといったところですが、ほぼ総てと言って良い位、高校の書道の授業で扱うものになっています。これらを各々3ヶ月(3回)のスパンで繰り返し学んでいきます。2019年の5月の段階では3巡目累計59回を数えるほどになりました。また、今列記した古典名を見て既におわかりかと思いますが、この講座での目標は、公募展に出品するための作品研究会とは性格を異にしています。基本をしっかり培いながら、漢字の成り立ちなど歴史的背景にも目を向けた「書の学び方、楽しみ方」を学ぶことに主眼を置いています。それは「品格のある古典に触れることの充実感」、そして「自分自身が変容していく体験」こそが何よりも大切なものと考えるからです。これらのことについては、いずれまた別のところで触れるかもしれません。
書や漢字の起源をたどると、篆書という最も古い書体に行き着きます。篆書の原初の姿としては殷の甲骨文があげられますが、さらに歴史を遡り、文字としての要件をいまだ十分に満たしていないものにまで範囲を広げると、新石器時代の陶片に残された記号のような刻符(陶文)の例が挙げられます。これらの甲骨文、陶文はいずれも磨製石器、隕鉄、堅い鉱物などを小刀に加工して文字や記号を刻みつけたと考えられています。このように、文字は原初の段階では刻みつけて残すものでした。殷の甲骨文の場合は、文字は亀甲や牛の肩胛骨などに刻んだもので、神に諮って吉凶を占いその結果を神との契約として残したもので卜辞とか契文といわれます。つまり、文字が神と交信するための神聖なツールであって、しかもその呪能をながく留めておくために念(おもい)を刻み込めるものであったのではないかと思います。実際に、甲骨に刻まれた微細で精緻な刻線を観察すると、沸々とその念(おもい)が伝わってくるような気がします。篆刻の原点もここに極まるのではないか、私はそう考えています。
篆刻とは、一般的には「篆書を用いて主に石材などの印を刻したり鋳造すること」といったところになるでしょうか。しかし、印といってもいわゆる証憑印などハンコ(判子)としての用途ではなく、篆刻では、書画作品に捺す姓名印、雅号印、齋号印などの落款印の他、作品構成の効果を図るために加える雅趣に富んだ語や関連のある語などを刻した遊印を制作することを想定しているといえます。さらに、書道公募展に篆刻の部が置かれてより久しい今日、篆刻は印という範疇から脱して篆書を刀で表現する一つの書の表現形態として定着した感があるのです。現在では篆刻を楽しむための様々な入門書や字書が刊行され書店で選択することができるようになりました。
ただ、それら初心者向けに編集されたそれらの本は確かに手軽かつ簡明でとても使いやすいものですが、むやみに安直な方法を紹介したり、資料数が少ないために広がりのある表現が難しいなどの問題点を抱えているということを知っておかなければならないと思います。例をあげると、布字の際、印稿を墨で敷き写した雁皮紙を、予め磨いておいた印面にあて、湿らせてから擦って転写するという方法が良く紹介されています。何でもそうですが、楽をして素養を身につけることはできません。この方法では、結局敷き写す際の不備と雁皮紙と印材とのズレによって生じた歪みを修正する必要があり、決して作業時間を短縮することにはなりません。より良いものを求めるならばなおさらのことです。このように私は、細部にわたる十分な観察力を養うことが基本的に大切であると考えていて、一見手間がかかるようでも、あえて鏡に映して行う方法を奨励しています。それは小筆の扱いに習熟するとともに漢字の造形に対する感性を養うチャンスでもあるからです。また、マジック転写なるものもあるようですが、篆刻を手軽に楽しむことを目的とするのか、あるいは篆刻の魅力を学ぼうとしているのかの何れかによって適否の判断は分かれることでしょう。私としては、篆刻へのいざないには別の道を提供すべきと考えています。
書と篆刻それぞれの特性(魅力)を簡潔に表現するならば、
書は
「筆墨紙の制約の下、筆に魂を宿し、墨色に彩りを加え、紙平面を立体空間に変えて無音の曲を奏でる自己表現。」
であり、
篆刻は、
「古代人の思いや森羅万象の様々な姿を線条化した篆書を扱い、その豊かで多様な造形を駆使しながら、かつ筆を刀に換えて念(おもい)を刻む書表現。」
といって良いのではないかと思います。
先に述べたように、このホームページは書と篆刻の世界との一つの関わり方の例としてご覧いただき、共に学んでいけることを願っております。